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2008学校教育総合研究

1 名前:有元典文@管理者 ★:2008/04/08 09:56 ID:???

院 学校教育総合研究の連絡、講義録、コメント、質問、対話用。

2007年度記録 http://www.psy.edhs.ynu.ac.jp/bbs/test/read.cgi/arimoto/1176101662/

2005年度記録 http://www.psy.edhs.ynu.ac.jp/bbs/test/read.cgi/arimoto/1113275065/

25 名前:有元@管理者 ★:2008/07/03 17:01 ID:???

>>23-24 伊藤さん、ごくろうさまです。
私はかなり楽しかったです。ああいう哲学巨編もいいですね!
専門用語を仲介する件。日常のことばに変換するモードは
重要だと私は思います。翻訳と言うよりも、それがアイディアの
源泉になると私は思います。

26 名前:荒木紫織:2008/07/11 02:14 ID:???

学校教育学分野の荒木紫織です。
かなり遅くなってしまい、申し訳ありません。

7月3日 発表の概要
子どもが「大人になる」ということ
―変容する社会と〈大人―子ども〉関係―

1.「大きくなったら何になりたい?」
 子どもは、幼いころから「大きくなったら何になりたい?」と聞かれたり、
学校に通うようになると「将来の夢」の作文を書かされたりする。
それはつまり、子どもはいつも「大人になる」ことを意識している/させら
れている状況にあると考えられないだろうか。

2.「大人になる」こととは何か?
 「大人になる」ことは、生理的・社会的・心理的次元において考えること
ができる。
しかし、現代では「職業をもち自分で自分の生計を営んで」いれば、なんと
なく大人になれた気分になれてしまう。
「大人になる」ことが困難なのは、なぜか。あるいは、「大人になる」こと
はいつから困難になったのか。

3.農耕型社会における〈大人―子ども〉関係
・1960年代以前の第1次産業中心の社会
・地域共同体の中で、子どもは「小さな大人」として、大人の仕事を見よう
見真似で模倣していく
・「一人前」であることを自他共に認められ、子どもは大人の仲間入りをす

・大人と子どもは共同生活者であり、子どもにとって大人とは、将来のある
べき姿を示す
220.150.93.244 , 244.93.150.220.ap.yournet.ne.jp ,


27 名前:荒木紫織:2008/07/11 02:16 ID:???

【続き】
4.工業型社会における〈大人―子ども〉関係
・1960年代以降の第2次産業中心の社会(高度経済成長による社会構造の
変換)。
・機械化により解体される地域共同体、人々は生産者から企業の雇用者へ
・重要視される学歴と、学校化していく社会で、子どもは「生徒」となっ
ていく
・子どもは、教育が必要な未熟な存在、「人的資源」として開発する必要
があるとされる
・子どもは親世代よりも高い学歴、良い職業をめざす
・親=身近な大人は、超えるべき基準となる

5.情報・消費型社会における〈大人―子ども〉関係
・1980年代以降の第3次産業中心の現代社会。
・「生存に必要な最低限の消費」から「生活の中に個性や趣味を表現する
消費」へ(「豊かな社会」の達成)
・高卒者の半数が高等教育を受ける時代=子どもが経済力・労働力として
期待されていない
・子どもの貯蓄の増加
・消費する者を平等に受け入れる社会では、大人も子どもも消費者として
対等な存在へ

○まとめ
大人と子どもの区別がない社会では、「大人になる」ことに意義どころか、
魅力もなくなってしまい、憧れや目標としての大人は必要とされない。
「個性」や「自分らしく生きる」ことに価値が生じるのは、「あるべき大
人の姿」がないためだろう。
それは、将来を限定されない自由とも呼べるが、同時に、未来が見えない
不安を生み出すのではないか。
220.150.93.244 , 244.93.150.220.ap.yournet.ne.jp ,


28 名前:荒木紫織:2008/07/11 02:18 ID:???

【続きの続き】
○論点
・現代における「大人」/「子ども」の定義とは?
・定義が曖昧なまま使われる「大人」の概念 → 「大人っぽい」、
「子どもっぽい」
・「大人」が能力の概念になっていないか? → 関係?内在する力?
・学校の役割(個人の「能力」という視点から)→ 能力による配分/
能力という変数を用いることの意味
・大人に「なる」のか?「ならされる」のか?

○感想
1年間卒業研究で取り組んだテーマであり、実際に卒論として提出
したテーマでもあり…。
もちろん、論文を書き始める前にもゼミで発表をしてきたし、卒論
発表会も経験したのですが、何かが違う。
それは、ゼミならまず聞かれないような意見・質問が出てくるから
だと思います。
ゼミの中で「常識」になっているような考え方については、敢えて
質問する人もいないし、当然、発表する側も、そんな説明は不要と
思ってしまいがち。
だから、今回のように、専門の異なる人が集まる場での発表は新鮮
でした(説明が必要になった場面では、動揺して変な汗もかきました)。
今回実感したことは、研究を深めるためには、同じ専門の人間が集
まって進めようとしても、限界があるということです。
師事する先生から教わることとは別として、新しい視点や考え方を
探るには、客観的な視点から指摘をしてくれる人の存在が不可欠だ
と思います。
「肯定」や「納得」よりも「疑問」や「否定」の方が、研究にとっ
ては面白い刺激になります。

修論のテーマ、今もまだ具体的な方向性を決めかねています。
今回の議論の中で出てきたことをヒントに、夏休みを使って考えて
みます!
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29 名前:有元@管理者 ★:2008/07/15 12:44 ID:???

荒木さま

>だから、今回のように、専門の異なる人が集まる場での発表は新鮮
でした

その同じ理由で私もこの講義が楽しみです。
仲間内でふくらませた言説を、門外漢に伝えて鍛える、という
ループは、コトバと概念を磨くために最良の手段だと思います!

30 名前:上田梨愛:2008/07/24 16:18 ID:5CF+c/Dw

学校教育専攻の上田梨愛です。
7月10日の講義録です。遅くなってしまい申し訳ありません。
持続可能な社会の実現を目指す視点による家庭科の教科書分析について発表しました。
発表の内容は、持続可能な社会の実現を目指し
@生活課題の自覚、A個人的解決、B社会的解決、C主体的参画の4つの視点を定め、
それによる高等学校「家庭総合」の教科書分析の結果と考察です。

議論では家庭科で何を教えるのか、学校で何を教えるのかという論点が出ました。
勉強は受験のためという意味合いが強ければ、生徒が勉強は何のためにするのかという
疑問を持つのも当然だろうと思います。
受験のためではなく、生徒の役に立つ勉強とはどんなものでしょうか。
先生の生物で白血球や血小板などの成分を勉強し、その後転んで出血したときに、
生物で学んだことが初めてわかったというお話がすごく印象に残っています。
私自身もそのような体験がないか思い出そうとしましたが、
残念ながら思い出せませんでした。
でも、科学がおもしろいと感じたことはあるように思います。

実は私は日頃から、学校で何を教えたらよいのだろうという疑問を持っていたので、
今回そのような問いが出たときはどきっとしました。
勉強に対する考えがいろいろと聞けたのでよかったです。
家庭科に関していえば、家庭科はそのまますぐ実生活に役立てることが
できる内容がたくさんあります。
それは受験のための勉強とは違うものですが、
ただ実生活で使えるだけというのも、
学校で教えるべき勉強とは違うという気がします。
勉強が机上のものだけでなく、実生活で科学が実感でき、
生徒の思考を促すようなものを教えることが必要ではないでしょうか。
またそのような学習のためには、授業の方法も工夫しなければならないと思います。
学校で何を教えるか、科学と生活をどうつなげるか、
これは私の興味関心と関わるところなので、
もっと発展させて、修論にもつなげていきたいと思います。
ありがとうございました。


118.15.1.4 , p2004-ipbf2606hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


31 名前:有元@管理者 ★:2008/07/29 06:18 ID:???

>>30 上田さんごくろうさま

科学と生活をつなげる、というのは重要ですよね。
学校で教えるのは科学者になるための科学ではないと思うのです。
将来生活するための科学。運動法則の初歩を理解していたら、
子供にシートベルトさせない親はいなくなるはずですが、
相変わらず後を絶たず。結局大学に行く人のための授業であって
残りはアラビア語の呪文を聞いてる内に学校が終わってしまって
生活に使えない。もったいないですね。

小学校までの理科を呪文じゃなくてしっかり理解させたら、
へんな健康食品をだまされて買ったり、過激ダイエットで身体こわしたり
ノーヘル運転でけがしたりしなくなると思うのです。
科学的な国民を育成できたらいいなと思います。
そうでもないと、学校やってる意味がないと思うのです。

32 名前:遠藤 光泰:2008/07/31 16:28 ID:gzrrceDg

7月17日の最終回担当、学校教育専攻の遠藤です。遅くなりました。

発表の内容は、「モラトリアムについての考察」ということで、
ニートについてのアンケートを導入に、モラトリアムについての
私の見解と、先行研究から教育の中で関わりについて短く紹介させて
いただきました。

議論の中から印象に残っているものについて取り上げてみます。
・「だれがモラトリアムを否定しているのか?」
発表は、アンケート結果や新卒偏重のシステムを指摘し、モラトリアム
が社会で疎まれていることを前提に進めていきましたが、実際あの回に
参加されたみなさんは「モラトリアム肯定派」だったことから指摘を受けました。
2006年に猪口前少子化・男女共同参画担当相が「負け組は立派だ。その人たちは
戦ったのだから。本当に反省すべきは『待ち組』だ」と発言し、波紋をよびました。
こうした「モラトリアム=怠惰な若者」と一義的に解釈されることに違和感を
覚えたのが研究のきっかけになったのですが、常に変化している社会の中で、
モラトリアムに対する見方も変化していることを常に自覚していく必要性を再認識
しました。あることを自明視することや安易なラベリングの危険性はこの種の問題には
特に注意を払うべきだと感じます。「ニート」というラベリングについても議論で
指摘を受けたかと思います。これについては、「ニートって言うな!」という
本が的を射ていると思うので興味がある人はどうぞ!希望でしたらお貸しします。


203.181.32.175 , q032175.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp ,


33 名前:遠藤 光泰:2008/07/31 16:29 ID:gzrrceDg

<続き>
・理論と実践の問題
「自分の子供がモラトリアムを享受したいと言い出したら?」この問いは本当に困惑
してしまいました。笑
自分の子供が社会に出るときには願わくばモラトリアムが社会的にもう少し許容されていたら
いいなと思います。でもそれでは答えにはなっていないでしょう。
研究者が避けては通れない問題ですが、考えてみると難しい。議論でも伊藤君の「語りのコンテクスト」
という立場で理論的立場を、鈴木君がそれに対する実践的立場を代弁してくれましたが、
モラトリアムという問題でこれからその両視点を忘れないようにしていきたいと思います。
研究を机上の空論や夢物語にしないように。

この授業では、みなさんがおっしゃるとおり、いろいろな人の意見が聞けて有意義でした。
思うところはあっても、人に伝えることの難しさを感じたことも多かったです。
これからもっと…というところで最終回を迎えてしまったのは残念ですが、
各々専門を深めていく中で、またこういった場に出会えたらと思います。
半期の間でしたが、ありがとうございました。よい夏休みを!

203.181.32.175 , q032175.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp ,


34 名前:有元@管理者 ★:2008/07/31 17:15 ID:???

>>33 遠藤さんごくろうさま

> 思うところはあっても、人に伝えることの難しさを感じたことも多かったです。
> これからもっと…というところで最終回を迎えてしまったのは残念ですが、
> 各々専門を深めていく中で、またこういった場に出会えたらと思います。

大学院の授業は学問の本番の練習編です。
まさにその「これからもっと」というところを、大学を飛び出て、
研究会や学会や実践の場で研鑽し、また楽しんでください。

35 名前:書けませんよ。。。:停止

真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ

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