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2010学習心理学講義(-特論)

1 名前:有元典文@かんりしゃ ★:2010/04/13 16:33 ID:???

院 学習心理学講義(-特論)の連絡、講義録、コメント、質問、対話用。

28 名前:新原将義:2010/07/01 12:15 ID:Z7OegU+A

「文化と実践」第3章(6月15・22日)

[要点]
・社会歴史的アプローチでは、人はmediatedな存在として描かれる。
・「大文字のディスコース」の定義は、文化の定義と一緒。
・普遍的な意味での「文化」の定義は必要ではなく、
 「社会的実践」と「人工物」の定義で事足りる。
 「文化」という言葉は「場の限定性」とセットで意味をなす。
 ex.「ジャズ文化」「盆栽文化」

[感想]
レジュメにも書いたが、文化は抽象的実体としてあるわけではないが
そうであるかのように見えてしまう「まとまり」が面白いと思う。
それを文化という言葉を用いて定義しようとすると、途端に面白さが色あせる。

133.34.73.121 , psy27.edhs.ynu.ac.jp ,


29 名前:尾出由佳:2010/07/05 01:28 ID:oOWhTLVU

『脱学校化の社会』イヴァン・イリッチ
序章・1章(6月22日)

【まとめ】
・価値の制度化批判
  →物質的な環境汚染、社会の分極化、人々の心理的不能化を招くから。
・社会の脱学校化
  →個人や共同社会が自身でやりぬく能力を伸ばす。
・すべての人に教育を与えるというのは、すべての人による教育を意味する。
  →学習に対する具体的な方策としては
   @技能(skill)自体は反復教授で習得、向上可能。
   A技能の探究的創造的使用には自由教育が必要(=学校からの解放)。
・求めるべきは、個々人にとっての人生の各瞬間を、
学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う瞬間に変える
可能性を高めるような教育の「ネットワーク(webs)」

【コメント】
・議論のなかで、「誰がいい先生になれるだろうか?」「教えるにふさわしい人とは一体誰だろう?」
という問いが挙がり、いかに我々が学校化されているかを思った。
イリイチの論では、その問い自体を無効にしようとしている。
・イリイチ的な社会では、知見の蓄積、拡散、活用は可能なのだろうか。
記憶や記録の価値自体も問い直す必要があるのだろうか。
125.198.66.239 , FL1-125-198-66-239.kng.mesh.ad.jp ,


30 名前:中塚圭二郎:2010/07/05 10:19 ID:7irWBqz6

『脱学校化の社会』イヴァン・イリッチ
2章(6月22日)

(まとめ)
●学校は,(1)特定の年齢層を対象に,(2)履修カリキュラムにフルタイムで出席を求められる,(3)教師に関連のある過程,である
(1)に対する批判
・「子ども時代」は最近生まれたもので,学習する意欲のない年齢層に資金や人材を割くべきではない
・学校によって「子ども時代」が作られ,教師の権威を強化している
(2)に対する批判
・「学習は教授の結果である」ということが誤っているのに,公理のように扱われている
・学校から得るものは,知識技能ではなく,学校を卒業したという免状だけである
(3)
・教師は閉鎖された環境で,集中した権力を持っている
・学校はブラックボックス化しており外からではその非日常性が見えない

●学校制度という儀礼的なシステム自体がこのような歪みを持たせる原因である.
・専門家主義への批判.専門家でないとその職業を行ってはいけないのか,民間でも十分できることじゃないか.
・自分の面倒は自分で見る,当事者主権の考えにもつながる
・そもそも,同じ学年で同じ時に,すべての子どもが1つのことに動機があるのは不自然
→課題に沿って勉強すること自体が動機になっているようだ.

(感想)
・hidden curriculumの内容は,学校がなかった時代ではhiddennといわれるものではなかった.
 このようなことに気づけない自分も学校化されていたことを感じた.
・教師に権力は集中しているが,同時に仕事や責任も集中している.
学校はもっと民間と協力し,協力される関係を作った方が子どものためになるのではないかと思う.
116.65.45.248 , 116-65-45-248.rev.home.ne.jp ,


31 名前:有元@かんりしゃ ★:2010/07/06 16:45 ID:???

>>27 阿部さん、講義録拝読。

>「異なる社会・文化において人々の行動に差が生じる」ことを前提としている時点で、文化間でのステレオタイプが想定できるのでは?

> 一方で、「男」・「女」・「国籍」など、ひとの認知を動かす何かは確かにある。→それが「文化」?

↑この指摘は重要ですね。
つまり文化を変数として設定し、その認知への影響を
見てる時点で、もう対象の見方が方向付けられてる
訳ですよね。

32 名前:有元@かんりしゃ ★:2010/07/06 16:46 ID:???

>>28 新原さん、おつです。

> レジュメにも書いたが、文化は抽象的実体としてあるわけではないがそうであるかのように見えてしまう「まとまり」が面白いと思う。

この「まとまり」化が興味深いですね。
性差、職業差、県民性、理系文系等々、我々が
対象を見る際の癖なのかも知れませんね。

33 名前:有元@かんりしゃ ★:2010/07/06 16:47 ID:???

>>29 尾出さん、まとめごくろうさま。

>議論のなかで、「誰がいい先生になれるだろうか?」「教えるにふさわしい人とは一体誰だろう?」という問いが挙がり、いかに我々が学校化されているかを思った。

こうした問の無効化というのは本当にラジカルだ。
無効化された後のlearning webは、学習機会ではない
かもしれない。それは洗脳や布教、悪影響による
堕落も含むだろう。学習者を誰が守るか、という
価値の問題は、安定した(と思われる)社会には
必要だと思う。

34 名前:有元@かんりしゃ ★:2010/07/06 16:48 ID:???

>>30 中塚さん、おつかれです。

> 教師に権力は集中しているが,同時に仕事や責任も集中している.学校はもっと民間と協力し,協力される関係を作った方が子どものためになるのではないかと思う.

無批判に学校が受け入れられていると、
批判したくなるし、学校に批判の刃が向けられると、
なにくそと思うこの不思議w

35 名前:滑川宏美:2010/07/13 02:30 ID:xybqyjn2

『脱学校化の社会』イヴァン・イリーチ
3章「進歩の儀礼化」(7月6日)

<まとめ>
○世界新興宗教「学校」の持つ儀礼的ゲーム(神話)からの脱却=「脱神話化」(demythologizing)を通して、
  アメリカ式の産業的な学校教育のあり方を批判

  ・生活水準の低い国では義務教育を全うすることさえ困難であるにも関わらず
   教育機関の最終段階にある「大学」を出た者にしか改革の権利が認められない
   =格差が生じるが、学校教育制度に異議を唱えることができるのは学校教育の恩恵を受けた者(!)

  ・学校が持つ『神話』(矛盾しているが盲目的に受け入れられているもの)
    「制度化された価値についての神話」(学習そのものに制度は必要ない)
    「価値測定の神話」(人の成長は本来測定できるものではない)
    「価値を詰め込む神話」(カリキュラムをこなせば生徒は成長する?)
    「無限に進歩するという神話」(学校に行けば行くだけ生徒の価値が高まる?)
    「儀礼的ゲームと新しい世界的宗教」(学校=いくつかの段階を進級するような儀礼的ゲーム)
    「未来の王国―すべての人が期待をするようになる社会―」
     →しかし一方で「新しい疎外」を生む

  ・脱神話化
    改革を望む人がこれらの神話から開放されなければ真の学校改革はできない

<感想>
留学時代に大学卒業者のエリート意識は国によってだいぶ差があると感じていたので、ある程度の経済水準を保っている社会、
つまり義務教育段階の子どもの労働力に頼らなくても回るような社会でイリーチを理解するのは難しいのではないかと感じた。
イリーチが批判しているのは学校制度の云々ではなく、学校に行かなければ社会的に成功し得ないという暗黙のルールではないのだろうか。
116.83.159.96 , nttkyo016096.tkyo.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp ,


36 名前:wat:2010/07/13 18:54 ID:???

すみません急に生徒指導が入って授業に参加できません。残念です。
210.227.76.23 , gw1.edu.city.yokohama.jp ,


37 名前:橋本隼人:2010/08/01 21:54 ID:Z7OegU+A

書き込み遅くなってしまい大変申し訳ありません。

「共感」佐伯胖 第1章(7月13日)
【要点】
・人に関わっている周りのもの・状況をとらえていく必要がある。
→状況や環境が人間の発達を支えている

・階段のように登っていくような「垂直的発達」ではなく、
様々な領域を渡って広がりをもつような「水平的発達」
→周囲の状況や環境によって、その人の発達の進行や能力が変わる

・どの側面が重要なのかを関係論的に捉え、「物語」の見方を変えていくことで、
場に応じた発達の理解が可能となる。

【感想】
発達や個人の性格特性は、状況に応じて変化していると改めて感じた。
その社会に適応できるかどうかは、個人の要因だけでなく、
環境の要因も重要であり、人が何を考え何を思っているのかを
状況論的に捉える視点も大切だと思った。
半期のの講義を通した状況論的な考え方を、
自分自身の臨床の中に取り入れられればと思う。
特に、その個人だけでなく、周りで何が起こっているのかを深く
考察していきたい。
133.34.73.121 , psy27.edhs.ynu.ac.jp ,


38 名前:書けませんよ。。。:停止

真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ

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