■掲示板に戻る■ 全部 
1- 
最新50
2007 学習心理学講義(-特論)
- 1 名前:有元典文@管理者 ★:2007/04/09 15:51 ID:???
 
-  院 学習心理学講義の連絡、講義録、コメント、質問、対話用。 
  
 2005年度記録 http://www.psy.edhs.ynu.ac.jp/bbs/test/read.cgi/arimoto/1113274990/ 
 
- 2 名前:理教(地学)M2 斉藤:2007/04/11 12:49 ID:i8pefGyg
 
-  第一回講義録 4月10日(火)6限 
 【内容】 
 ・「心理学」の定義とは? 
 →そもそもこころってあるの?(素朴理論) 
 ⇔こころのある、なしを見分けている。 
 自律的=自然の力に歯向かって勝手に動く=生き物っぽい(=こころがある?) 
 「心理学」≠「生物学」、「脳生理学」、etc. 
   ↓ 
 「こころ」をめぐる“文化”がある。⇒物理現象とは違う! 
 ⇒人間を客観的に科学するのは非常に難しい。 
 「こころ」には常に“文化”が付きまとう。 
 ⇒「心理学」は人間だけで見ることはできない。 
 ∴「心理学」=人間+文化 
 文化と切り離して考えられない。 
 人間は自分たちのこころを自分たちでつくり上げている。 
  
 という感じで私なりに要点をまとめてみました。 
 次回以降のハードルを下げてしまったかもしれませんが…。 
 私の専攻とは直接関係ありませんが、興味を持って講義に臨めそうです。 
 よろしくお願いします。 
 
133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp , 
 
 
- 3 名前:学教M1 岡崎:2007/04/11 14:52 ID:+DjWHgA2
 
-  >斉藤さん 
 講義録ありがとうございます。 
 数学の証明のようで、視覚的に理解しやすいですね。 
  
 私は人間のdesireの話に興味を持ちました。 
 好きな人ができたら私達は何をしたくなるか。 
 平安時代は好きな人ができたら和歌を送っていた。 
 私達は「和歌を送りたくなる」desireはもたない。手を繋いだり、告白したくなる。 
 desireも文化とセットである、という話が面白かったです。
60.35.67.227 , i60-35-67-227.s02.a014.ap.plala.or.jp , 
 
 
- 4 名前:有元典文@管理者 ★:2007/04/11 16:10 ID:???
 
-  >>2 斉藤さん、上手にまとめていただいてありがとう。 
 「素朴理論 naive theory」について補足します。 
 科学的な理論とは異なる、日常の素朴な経験から作られる「理論」のこと。 
 地学の専門の話を今度聴かせてください。 
 地学(自然科学)は心理学とことなり、文化の影響を受けない、<客観的>な 
 真実があるのでしょうか? 
  
 >>3 岡崎さん、 
  
 desire、need や perception のように生得的に備わったものと 
 考えられるものの社会文化性を見ていくのがおもしろそうですね。 
 以下有斐閣心理学辞典より抜粋 
 「一次的欲求 primary need 
  生得的に備わっている基本的欲求のことをさし,経験により形成される 
 二次的欲求と対比される。具体的には,まず飢えや渇きの欲求,排泄や睡眠の 
 欲求のような生理的欲求があげられる。これらの生起は身体内部の状態を一定 
 に維持する仕組であるホメオスタシスに規定される。ほかに内発性の欲求として, 
 接触の快を求める欲求や刺激を求める欲求,探索や活動の欲求も生得的なもので 
 一次的欲求として位置づけられる。」 
 
- 5 名前:理教(地学)M2 斉藤:2007/04/17 19:30 ID:Olkk9Mf2
 
-  遅くなって申し訳ありません。 
 地学においても100%客観的な真実はないと私は思います。 
 学部の時の教官が、研究発表で海外に行くと、欧米系の学者は 
 宗教に対する信仰心が強く、根付いているため、最終的に 
 神の力として片付けたがる、と言っていたことを思い出しました。 
 もちろん大げさに表現したとは思いますが、自然科学の分野に 
 おいても文化の影響は大きいことが感じ取れます。
133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp , 
 
 
- 6 名前:理教(地学)M1 伊藤:2007/04/17 21:13 ID:Olkk9Mf2
 
-  [連絡事項] 
 ・5月1日は休講です。限りある休暇を楽しみましょう。 
 ・輪読テキスト(買わなくても良い)⇒状況に埋め込まれた学習/ジーン・ 
 レイヴ&エティエンヌ・ウェンガー 著/佐伯胖 訳/産業図書 
  
 [講義内容] 
 ・正統的周辺参加 
 ⇒学習者が、ある技量を持つ共同体へ参加することで、苦にすることなくその 
 技術を身につけていく学習理論。学習に関して、個人だけを見ずに、 
 個人が参加した社会にスポットを当てた考え方。 
 物事の「できるようになった」という判断基準は完璧な境界はなく、社会的に 
 可視的になった出来事ではないだろうか? 
 (例) 
 ・赤ちゃんが立った・歩いたという基準 
 ・子どもが自転車に乗れたという基準 
 ・英語が話せるようになるという基準 
 ・生徒が理解したという基準 
 ・料理の世界で一人前になったという基準 
 このように挙げればきりがないが、全て、客観的事実として認定し難いもの 
 である。技量を測るには判断基準が曖昧である。 
 しかし、例えば大工の世界では「1人前の技量を身につけたい」という目的 
 がはっきりして学習者が参加するが、学校ではどうだろうか? 
 「何(誰)になりたい」という目的意識はなく、迫真性に欠ける。 
  
  以上、分かりにくいですが、私なりにまとめさせていただきました。 
 そういえば、生徒の理解度を測る手段として、テストがあります。テスト結果 
 から生徒の学習の理解度を点数化するのですが、テスト結果は教師の教える 
 技量を点数化するものという考え方はないのでしょうか?点数が悪い⇒教え方 
 が悪いという意識はなぜか隠れてしまいますが、私は大切なことだと思います。
133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp , 
 
 
- 7 名前:有元典文@管理者 ★:2007/04/18 20:49 ID:???
 
-  >>5 斉藤さん 
 >地学においても100%客観的な真実はないと私は思います。 
  
 機会があればこのことも話題にしたいと思います。 
 サイエンスウォーズと呼ばれた、科学を社会的な実践として 
 研究する社会学者と、科学を自然界の客観的真実の記述と捉える科学者 
 との論争があったのです。 
  
 >>6 伊藤さん 
  
 講義録ありがとうございます。お二人とも地学ということは 
 河潟先生のとこですか。かれとは仲良しです(^_^) 
  
 テストも<社会的に>学習者の理解を可視的にするデバイス(工夫)ですね。 
 前回の話のテーマは、このように<社会的に>露わにされる以外の 
 内なる学習というのがあり得るか、ということでした。 
  
 テストが教師の技量を示す道具にもなり得るというのは、 
 その通りでしょう。塾講師のバイトしていたとき、教室毎の 
 平均値の隔たりというのは、講師の技量の重要な指標(リソース)でした。 
 ほかよりさがんないようにガンバってました。 
 
- 8 名前:分野(M1) 赤澤夏嘉:2007/04/25 13:05 ID:3wL2cPLE
 
-  <2007/04/24のレジュメ> 
 ウィリアム・F・ハンクスの序文 (p5〜20) 
 ・著者は、“『状況に埋め込まれた学習』は、 
   人間の理解とコミュニケーションが状況に 
   埋め込まれている。 
   という性質を研究する人間科学の成果の増加に、 
   貢献の一つとしている”(p6.l16)と述べている。 
    学習を特定のタイプの社会的共同参加という 
   状況の中におき、どのような社会的関わり合いが 
   学習の生起に適切な文脈を提供するかを問う考え方 
   であるから(p7.l4)…と。 
 学習=LPPという緩やかな条件の中で生じる過程。(p7.l11) 
   =社会的世界でのあり方。 
 (学習者の学習の文脈+文脈が生成される社会的世界) 
     (p19.l15) 
   =一実践ないしいくつかの実践の集合体。(p21.l2) 
  
  
 <講義録> 
 序文を読み、著者の所属していると思われる 
 シカゴ大学を調べてみる過程で、この本が 
 「実践的なアプローチ」という教育に通ずるもの 
 を感じた。 
 シカゴ大学はデューイが務めていたので、 
 この状況的学習理論の考えにいたるには、 
 「learning by doing」も影響を与えているの 
 ではないかと考えた。 
 1章に読み進めると、そのような文章もあった。 
 そこで、私の所属する総合学科高校の目玉とも 
 いえる総合的な学習の時間について紹介した。 
  
 序文では、LPPや状況に埋め込まれた学習を読む 
 うえで、従来の学習理論の大きく2つの視点を 
 転換する必要性があること(p10〜)と、 
 この理論がどんなことに貢献していくかと 
 いう点を捉えられればいいと感じた。 
 序文の著者は、色々な表現をかえ、 
 LPPについて説明しようとしているが、 
 一番分かりやすいのは、 
 p19辺りの説明ではないだろうか。 
  
  
 
61.204.208.227 , 61.204.208.227.customerlink.pwd.ne.jp , 
 
 
- 9 名前:分野(M1) 赤澤夏嘉:2007/04/25 13:11 ID:3wL2cPLE
 
-  序文その2 
 <質疑応答のときの有元先生からの補足> 
 この序文は、学習って、経験によって考え方や 
 理解が変わることだけど、学ぶことでこの 
 集団組織自体変わってしまうこともあったら、 
 それをどう説明するか? 
 →学習を個人レベルで捉えるのではなく、 
 社会や文化、集団レベルで捉えているのが、 
 LLPであると述べている。 
  
 Q:この理論からすると、学習は、 
 複数人いなければ本当に成立しないのか? 
 A:集団への不参加、無関与では学べないと 
 いうことになる。 
 また、無人島で一人きりだったとしても、 
 人工物や人の作った文明と関わっている中で 
 生じる変化は、決して孤独な個人だけの生じる 
 学習ではない。 
  
 Q:知識のポータブルとは? 
 A:誰かの知識を丸ごと転写することは、 
 不可能。他者の技術を見て盗む、 
 身に付けた知識を他で活用や応用ができる 
 ことをさす。 
  
 <講義を終えて> 
 所属校で捉えているコミュニケーションに 
 必要な3つの要素の「間」のつく言葉を考えて 
 もらうワークも実施した。 
 正解は「時間」、「空間」、「仲間」でしたが、 
 私も他にコミュニケーションに大切な 
 間のつく言葉は本当にないのかと疑問を持ったときに、 
 思いついた「人間」という言葉をあげてくれた 
 人が多くいた。 
 以前に、 
 “「人」は人と人の間で文化や様々な 
 ことを学んで「人間」になる”という 
 言葉を聞いたことがあり、耳に残っていたからだ。 
  
 それなら、学習の成果が人間になることなのか…。 
 人間でないとコミュニケーションに参加できないのか…。 
 まだまだ答えがはっきりしない。 
 レジュメの図で、人間のところにあえて「間」 
 という漢字を入れず、また3要素とは別にして 
 位置づけたのには、そんな苦悩があったからだ。 
  
 この本の輪読を進めていく中で、 
 少しでも答えに近づければいいなぁ…と思う。 
 
61.204.208.227 , 61.204.208.227.customerlink.pwd.ne.jp , 
 
 
- 10 名前:学教(M2) 前原まき子:2007/04/25 18:59 ID:s3Pk036Y
 
-  学習とは副産物である。 
  
 実践共同体に参加する,参加した結果として知識や技能が身に付くということ。 
 例)・引っ越し屋をやっていたら筋肉がついた。 
   ・院生になって論文をたくさん読んでいたら読解力がついた。 
  
 学校という場はこの逆の発想をしている。 
 知識を入れたら,トレーニングをしたらできるようになるという発想 
 例)・筋肉をつけたら引っ越し屋になれる。 
   ・読解力をつけたら院生になれる。 
  
 まず実践が先にあって,特に意図していなくても身につく,それが学習。 
  
 有元先生の補足をうけて,「好きこそものの上手なれ」という言葉と 
 意味が近いのかなぁという連想をしました。 
  
  
  
 
133.34.73.111 , psy17.edhs.ynu.ac.jp , 
 
 
- 11 名前:ありもと@管理者 ★:2007/04/25 22:43 ID:???
 
-  >>8-9 赤澤さん、どうもありがとう。LLPじゃなくてLPPですよ! 
 しっかりアイスブレイクしてくれて楽しかったです。さすが現職。 
 学習の成果は人間になることなのか? 
 LPPの理論では、あの先輩(大人、熟練者、親方)みたいになること、です。 
  
 >>10 まっきー、ごくろうさま。 
 好きこそものの…、まさにそういうことです。 
 LPPはおばあちゃんの知恵袋みたいなものですね笑 
  
 ○レジュメに本文頁行を入れる 
 ○報告は大事なところと分からなかったところをコンパクトに 
 ○議論に時間を割きましょう 
 来週も楽しみにしてます。 
 
- 12 名前:学教M2 紅林裕子:2007/05/08 21:43 ID:gNsZ69I6
 
-  第4回講義録(2007/5/8) 第1章 正統的周辺参加(P.9-20) 
  
 *正統性 権力関係を含む概念、参加(=学習)の必要条件 
      所属の仕方を決める要因(誰として参加するか) 
 *周辺性 共同体における参加の位置、社会的世界での位置づけ 
      中心は存在しない、周辺的な行為から中心が浮かびあがってあるように見える 
     ⇔進行中の活動への無関係性、非関与性 
      周辺的であろうと参加をした時点で、その共同体の一部となる 
  
  社会的実践が主であり、その一側面が学習である 
  
 学校 知識は脱文脈化できると主張 =特殊な文脈としての学習 
    学んだ抽象的知識はいつ使ってる?ベクトルは?物理の公式は? 
       学校だけで使う学習(=特殊な文脈)学校ゲーム? 
  
 正統的周辺参加 =学習に新鮮な目を向ける分析的視座 
  
 では、学校にどのように応用可能か... 
 Lave&Wengarは学習の常識を壊すきっかけ(見方)を与えた 
 これからどのように作り上げていくか...
133.34.73.109 , psy15.edhs.ynu.ac.jp , 
 
 
- 13 名前:有元典文@管理者 ★:2007/05/11 14:07 ID:???
 
-  >>12 紅林さんありがとう。宿題の「ダブルバインド」ですが、 
 エンゲストロームの本に詳しいです。(拡張による学習、p.198-) 
 「バラバラな個人的行為だけでは解決され得ない社会的な、 
 社会にとって本質的なジレンマ」とのこと。「そのジレンマの 
 なかでこそ、共同の協働的行為は歴史的に新しい活動の形態を出現 
 させることができる」 
 
66KB
新着レスの表示
掲示板へ戻る 全部 前100 次100 最新50