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2005 教育の心理学

14 名前:栗原 :2005/11/28 15:19 ID:tuxEo00c

*11月28日の講義録です*

【使用した教材】・状況的学習論のプリントの続き
        ・ワークシート4・学習とは2(繰り返し練習の実験)

「個人主義的な学習論」
人間は繰り返しやることで、身に付く・できるようになると考える。(人の学習感)
同じ課題を同じ条件で繰り返し、その結果(?)を個人毎に履歴として残し、都合の
よい部分だけを取り出せるようにしておく。この作業によって学習曲線を描くことが
でき、個人主義的な学習を可視化させることができる。

「心理学における学習の定義」
個体発生過程において、経験により比較的永続的な行動変化がもたらされること、
及びそれをもたらす操作、そしてその過程。

短いバージョン:経験による比較的永続的な行動変化

注:・進化、遺伝は除く。火事場のバカ力、酔っているなど一時的なものも除く。
  ・ソーシャルなものである。

私達はartifacts(人工物)に囲まれて生きている。物理的・空間的に一人になれ
ても、認知的にまでは一人ぼっちになれない。
(例:数を数えるという感覚も、人工物を用いているから。)
また、社会の中では一人前になろうと動機付けられる。(あこがれの先輩や親方等)
しかし、学校の中では誰かを目指す、一人前になるということがない。

219.178.96.3 , YahooBB219178096003.bbtec.net ,


15 名前:ありもと@管理者 ★:2005/11/30 14:46 ID:???

>>14 栗原さんごくろうさまです。
社会的動物であること、は人間の基本的条件です。そのことを強調したい。

16 名前:和田美央:2005/12/06 19:13 ID:mfotqHp6

 12月5日の講義録です。

状況的学習論のプリント後半1/4から、先週に引き続き状況的学習論のまとめ。
状況的学習論が対象とする学習とは、
 ・コミュニティへの参加
 ・人工物
 ・実践
の3つの要素を必要としている。
「使うために学ぶ」という、一人前になることが動機付けられている学習である。

一方、学校では学ぶこと自体が生活と文化的距離を持っており、そこでの学習が
社会的意義のある実践なのか、学校の中で一人前になるとは如何なることかがわか
りにくい。これでは「学ぶために学ぶ」という皮肉な結果を招き、学校での学習に
うまく乗れるのは、学習というゲームのやり方に習熟した子だけとなる。

こうした文化的距離を埋める方法として、状況的学習論は、学校を相対化する視点
を与え、社会的実践の実践者としてのアイデンティティを得られるような学習環境
のデザインの方向性を強く示す。

●ワークシート 人工物と現実のデザイン
認知的人工物について (空欄に入れる語句→強化・変化)
※プリント参照のこと
○人工物と可視化 (人工物またはそのセットがあるために特に知覚可能な現実を
列挙)例:音程(チューナー、楽譜)、服のサイズ、学力、自分の外見(鏡、写真)
、体重、体温、過去(ビデオ、アルバム)、距離、乱暴運転(ウィンカー)など。
人工物が現実の見え方に影響を与えている。=(認知的)人工物は現実に見えを与え
る〈インタフェース〉の作用を持つ。

正統的周辺参加のプリント配布。次回持参のこと。
以上
133.34.210.23 , pxysrvky01.ipcn.ynu.ac.jp ,


17 名前:ありもと@管理者 ★:2005/12/07 12:07 ID:???

>>16 和田さん、まとめがお上手ですね。ごくろうさまです。

18 名前:ありもと@管理者 ★:2005/12/07 15:41 ID:???

試験は2月13日(月)に定刻同教室で行います。詳細は講義で。

19 名前:重田智之:2005/12/14 17:45 ID:???

12月12日の講義録です。遅くなりました。
【使用教材】
・『正統的周辺参加』のプリント
・ワークシート

【授業内容】
『正統的周辺参加』という学習理論がどんなものであるかを、ワークシートを用いて
具体例を挙げながら理解しました。

人は共同体に参加することで、様々なものを身につけていく。
例えば、『日本人』という共同体に参加することで、当然のように日本語を
話せるようになったり、『男』という共同体に参加することで、いわゆる
『男らしいかっこう』などをするようになる。
経験によってできなかったことができるようになることを『学習』と呼ぶのであれば、
上の例の様に共同体に参加することで何かを身につけていくことも『学習』と呼ぶことができる。
また、この学習理論の優れている点は、
  ・共同体に参加するほぼ全ての人が習得することができる。
  ・共同体に参加することに特別な苦労を必要としない。
という部分で、そのことから理想的な学習方法の1つと考えることができる。
しかし、『共同体への参加』が義務付けられるため、この学習理論を実践するのは
非常に難しい。

以上

疑問なんですが、『学校に通う』ということは正統的周辺参加に含まれるのでしょうか?
学校という共同体に参加することで、例えば進学校に通う生徒の大半が大学に進学することを
当然のことと考える様になると思うし、そう思うこと事態に特別な苦労は必要ないので、
正統的周辺参加と呼んでも問題ないと思ったのですが。



218.229.61.158 , tetkyo034158.tkyo.te.ftth2.ppp.infoweb.ne.jp ,


20 名前:ありもと@管理者 ★:2005/12/15 15:54 ID:???

>>19 重田さんありがとう。

学校は実践の共同体です。特有の人工物と実践がある。
そこに参加することは正統的周辺参加と似ていると思います。
「似ている」であって、イコールと言い切りがたいのは、「正統的」で「周辺的」と
言えるかという疑問があるからです。

21 名前:奥原洋人:2005/12/20 05:47 ID:sY7ZLRBU

12月19日の講義録です。

【使用した教材】
『正統的周辺参加』のプリント
ワークシート07 実践の文化のスケッチ(宿題)

【授業内容】
前回の続きで、『正統的周辺参加』という学習理論が学校における学習に
有効であるかを検討した。『正統的周辺参加』の意味としては、
『正統的』とは後継ぎによってある共同体を再生産するという意味を持ち、
『周辺的』とはある共同体の中心に迫るように参加、実践してゆくという意味である。
この双方の鍵は実践共同体としての学習が成り立つ上で必要不可欠であり、
このつながりがあって初めて実践共同体としての学習が成り立つ。
しかし学校は実践を行う共同体として、『正統的周辺参加』に似てはいるものの、
そこで行われる実践は社会的実践とは異なる(リハーサルと本番の差異)為に、
実践共同体としての学習は弱いものとなってしまう。
また、『正統的周辺参加』のような参加としての学習は、その共同体の実践を
構成しているものの全体像=『スケッチ』を描くことが出来るが、学校での
学習では、このようなスケッチを描くことが難しく(例:分数の通分)、
描けてもそれは『学校化された人々の共同体』のスケッチに過ぎない。
このように、『正統的周辺参加』から学校の学習を構想することは難しいこと
ではあるが、挑戦しがいのあることでもある。
210.20.154.230 , 210-20-154-230.rev.home.ne.jp ,


22 名前:のりふみ@管理者 ★:2005/12/20 10:11 ID:???

>>21 奥原さんありがとう。
学校のどこに問題があるのか、日常性を生きているみなさんの視点で
考えてみて、教えてもらいたい。[宿題]ワークシート7 〜1/16
良いお年をお迎え下さい。

23 名前:熊川 浩之:2006/01/17 01:54 ID:72TGiQ4E

1月16日の講義録です。

前回まで触れてきた正統的周辺参加について少し触れたあと、宿題となっていたワークシート7の各問いへの
答えをみんなで発表しました。日常生活では「じゃんけん」「暗記」は割と使う機会が多いのに対し、「通分」に
ついては具体的な使用例が少ない、ということになりました。またそこで、なぜ「通分」を学ぶのか、ということ
について「数学的なことを学ぶのに必要」だから学ぶのであり無理に日常と結びつけることもないのでは、
ということでした。

・文化的距離…学んだことが生活に活かせるか。すぐ活かせるようならばその距離は0となる。
・転移(transfer)…どこかで学んだことを他で活かす。例:スケート選手が競輪選手。
学校は一般的なことを教える場なので転移を望んでいる。ただそううまくは転移はしないらしく、同型問題に答えられない
(つまり転移できない、マッピングさせなければわからない)ことを意味する「領域固有性」という言葉もある。
次に、学校が目指すべきものは、ということでキーワードは「全体性の一部」「文化的実践」「社会的意義」ということが
挙げられました。「全体性の一部」については、例えばテニスの壁打ちがいい例で、試合という全体があるから壁打ちという
一部が成り立ち、モチベーションをもって取り組めるということ。「文化的実践」については、わかりやすい実践が存在する
ことで、学習する意味が分かりやすくモチベーションを高めやすいということ。「社会的意義」については、社会的意義または
社会的要請があれば人は行動するということ。
つまり、以上のようなことが学校には欠けており、正統的周辺参加を行うには学校は不利である。よって、学校が目指すべきものは
今教えていることは全体性の中の何なのか、ということをはっきりさせ、学んだことを日常で使えるようにしてやる、
つまり文化的距離を埋めてやることができるものである。
219.52.76.113 , softbank219052076113.bbtec.net ,


24 名前:ありもと@管理者 ★:2006/01/23 10:16 ID:???

>>23 熊川さん、ごくろうさまです。
この講義で、学校が学びには不利で、学びに必要ないくつかの基本的な
条件を欠いていることを再確認できました。

25 名前:ありもと@管理者 ★:2006/01/27 20:25 ID:???

30日休講です。

26 名前:書けませんよ。。。:停止

真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ

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