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2008学校教育総合研究

1 名前:有元典文@管理者 ★:2008/04/08 09:56 ID:???

院 学校教育総合研究の連絡、講義録、コメント、質問、対話用。

2007年度記録 http://www.psy.edhs.ynu.ac.jp/bbs/test/read.cgi/arimoto/1176101662/

2005年度記録 http://www.psy.edhs.ynu.ac.jp/bbs/test/read.cgi/arimoto/1113275065/

16 名前:杉本 季穂:2008/06/02 15:55 ID:5+50GCQg

5月29日の講義録です。発表テーマは「小学校英語の導入について」でした。発表の流れは以下の通りです。
@小学校英語の現状:都内、荒川区の小学校例。
A新しい学習指導要領:小学校の導入される『外国語活動』のねらい・内容
B小学校英語における問題点と論点:例.教員の質、ALTの派遣、国語や中学英語との兼ね合いなど。
C考察・感想:英語をコミュニケーションの手段と考える、教員もともに学ぶ姿勢で授業に取り組む。

議論では、なぜ小学校で英語を勉強するのか?なぜ英語教育だけがその賛否を問われているか?
あるいは算数や理科など他の教科でこの疑問は問われないのか?という疑問点が挙がりました。
また、現行の中・高・大学での入試制度や成績評価では、結局英語も教科化し、小学校英語の目指す
コミュニケーション(しゃべる英語)のための手段ではなくなってしまうのでは?という意見も挙がりました。
それらを踏まえて、今回特に重要に感じた意見としては、「児童に英語を話す人々(外国人学校の生徒など)に
直接会わせる」といった場面作りを教員側が行い、英語を言語とする人に直接触れさせる授業が
必要ではないかという意見です。
文化の違いを外国語活動で生かすことや地域性を重視するのであれば、英語に限らず
各地域に関連の深い国の言語を授業に取り入れていくことで、コミュニケーションの手段としての
外国語学習となるのでがないかという意見をいただきました。
小学校英語を考える際に、導入の背景や目的・ねらいだけでなく、英語に触れる授業内容の編成や
児童の活動といったことを考慮していくべきだと思いました。
今後の研究では、上記の内容に着目しながら研究を行い、小学校における英語教育の授業案を
作成し、実践的な授業を考えていきたいと思います。


133.34.236.60 , pc-p030.ipcf.ynu.ac.jp ,


17 名前:有元@管理者 ★:2008/06/03 09:11 ID:???

>>15 中村さん、ごくろうさまでした。
> 議論の中心はとくに「中学生がピアスをすること」になっていきました。

ひとの興味の中心がわかって収穫でしたね。
服飾関連研究というのは、そういう社会的、文化的なまなざしに
さらされるんだなぁと思いました。そもそもプライベートなことでありながら
極めて文化的なものなんですね。「サイコロジカルな説明」の希求というのも
強いことがわかり驚きました。うかつにピアスも出来ませんね(笑)
こんどピアスしてみます嘘

18 名前:有元@管理者 ★:2008/06/03 09:11 ID:???

>>16 杉本さん、ありがとう。
> あるいは算数や理科など他の教科でこの疑問は問われないのか?
研究的にはこのことが一番興味深いですよね。
なんで勉強するの、という素朴な問いへの答えが、学校にはあまり埋め込まれて
いない印象があります。なにかの手段(ツール)として教科を教えているはずが
往々にして、なにに使えるのか分からず手段が目的かしてしまう。
その手段目的化のナンセンスさが引き立つのが英語なのでしょう。
手段→活動ではなく活動→手段というボトムアップの学習環境デザインについても
触れました。必要な環境があれば手段を身につけるという発想です。

19 名前:宮本安希子:2008/06/19 13:18 ID:???

学校教育専攻の宮本です。6月12日の講義録です。
今回「新たに求められる教師像」について発表させて頂きました。
発表の流れは以下の通りです。

題;新たに求められる教師像
(1)学校の教師
(2)教師像の変遷
(3)教育改革の中で求められる教師像
(4)考察

論議をする中で、浮上した問題は2点。
(1)そもそも聖職者とは何か?
(2)教師像とは政治的、時事的なものか?

(1)まず歴史から、
 1881(明治14年)当時の文部省は小学校教員に対して、
 守るべき心得を16項目に渡って示した。
 その中で小学教員が受け持つ普通教育の良否が国家の隆盛に
 極めて大きな影響を与えていくと述べ、
 「尊王国家ノ士気」を国民に教化していく事を使命とし、
 人格的な高潔さを持って人々の模範者であることを求めている。
 この小学校教員心得の制定は、国家が品行資質を規定する意味で、
 戦前の小学校教師像に国家主義的方向性を持たせた重要な変容であった。
 忠君愛国の道徳を中心として、教職を天職として国家意思に忠実な教師像を
 求めるべく制定したものであったといえる。
 また制定以来、教育に携わることを神から授けられた使命とし、
 清貧に甘んずることをよしとする伝統的な教職観としての
 「聖職論」が社会に浸透していった。

辞書的には、
 @人を導き教える聖職に従事している者。僧侶・神官・教師。
 A特に、キリスト教で聖職にある者。など








203.184.115.46 , 203-184-115-46.ap-e01.canvas.ne.jp ,


20 名前:宮本安希子:2008/06/19 13:19 ID:???

引き続き…

《補足》聖職者としての裏づけとして
◆ドイツの教育哲学者フリットナーは『一般教育学』の中で、
 「教育」という作用を自然的・社会的・精神的・人格的という
 4つの人間存在の条件との関わりで分析している。
 そして「教育」の作用を4つの視点から把握すべきであるとしているが、
 フリットナーの述べる教育の作用を担う教師の役割について、2つ取上げてみたい。
 「人間の精神を高め豊かにする諸価値への愛を呼び覚ます精神の覚醒者
 としての役割」そして、「被教育者との教育的な出会いを通して彼らのなかに
 信頼・希望・愛の泉を沸き上がらせる人格の覚醒者としての役割」とあるが、
 この覚醒者という記述がいかにも聖職者的教師を裏付けているように感じ取れた。

(2)日本の教師の歴史を考察するにあたり、明治維新以前と以後では教師が行なう
  教育活動の性質に大きな違いがあったことは確かである。
  それは、個人的な教育と国家事業としての教育、あるいは制度化されていない教育と
  制度としての教育である。
  もともと教師の役割が、被教育者個人の自己実現の課題に対して果たす教師の責務である
  と言えるが、この働きそのものが社会の維持・発展に直接結びついていくものである。
  教師の「人づくり」による社会への貢献が、身近な地域社会レベルのみならず
  国家発展にもつながり、さらにグローバリゼーションが進展する今日の国際社会においては、
  地球規模における人類の発展にもおそらく繫がるであろう。
   以上のように、教師の役割自体は普遍的なものではあるが、
  その時代に求められる教師像とは、時代と共に変遷していくのでないかと考える。
  国家の政策が変われば教師“像”は変わるのではないかと結論付けた。



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21 名前:有元典文@管理者 ★:2008/06/19 16:14 ID:???

>>19-20 宮本さん、詳細な説明ごくろうさまです。
教師にはa)理想的・理念上な位置づけとb)現実的な職能・職責の二通りの
見方があり、そのバランスの上に存在するようですね。
観察される存在としての教師という感じでしょうか。
いまはa)の割合がへってb)の要素が増えているのでは。
教師力とか実践力ということがずいぶん言われます。
一方で、教師の犯罪を特にクローズアップするのはa)の見方からなのでしょう。

22 名前:原田:2008/06/22 13:03 ID:???

6・19 原田が「看護教員のキャリア形成過程とその支援システムについて」
キャリア発表しました。発表の内容は1.問題の背景、2.キャリアとは
3.看護教育制度について 4.キャリア発達 5.看護教員 6.大学教育
と専門学校の教育の違い 7.先行研究 8.教員と看護教員の発達段階
9.課題でした。
 論議:キャリアとはなに キャリアcareer 職業・技能の上経験。経歴です
 発表の中で、自分はライフコースと捉え(個人歴、職歴、家族歴)をわせて
 定義していました。もっと整理していくとなにを示めしているか明確にな
 ると思いました。現状を理解する上で数値で表す。そうすることでよ
 り理解しやすいで、他の人たちにも伝わるともに、そこから問題が見
 えてくると思いました。また、問題・矛盾としてあげていますが、それがほ
 んとにを問題かどうかもっと整理して解明の必要があります。そうすること
 で 問題が明確すると考えました。 支援システムをつくることで、もっと
 がんじがらめになるのではの指摘ですがそうかもしれません、そうゆう集団
 だから・・・・ 途中でやめていくことも 1つの選択では、指摘がありまし
 たが、支援システムがないかからとやめざるを得なかったのも、自分の偏っ
 た考えでした。その人の個人的な事情であったのどでそれを選択したかも?。
 いろんな質問をされましたが 自分の職業でありながら質問等に十分答えら
 れなかったのがショックで した。学習不足と反省しました。
 これから、自分があげた課題を文献等で解明しつつ、整理していきたいと考
 えます。ありがとうございました。 
218.140.5.46 , softbank218140005046.bbtec.net ,


23 名前:伊藤巧:2008/07/02 22:01 ID:???

遅れました、すみません。学校教育専攻の伊藤です。
6月19日の発表について以下簡単にまとめます。
発表では、社会学の創始者として知られるゲオルグ・ジンメルの
生の哲学者としての側面から、彼の「生の精神化」について
述べさせて頂きました。発表の流れとしては以下の通りです。

・ジンメルにおける、二重性を持つものとしての「生(leben)」の定義
・ジンメルの思想の背景としての当時のドイツ社会の概観
・個性的法則についての言及
・以上をふまえた上での「生の精神化」への照射
・質疑応答、議論

内容について詳しくまとめるよりも、
発表そのものの感想について述べたいと思います。
発表としては、かなりわかりにくいものであったと思いますが、
多くの質問や意見を頂けたお陰で、おおよそ「生の精神化」概念を共有することが
出来たのではないかと思います。
哲学の文脈で書くと、簡単に言えるような事もなかなか難しいというか
厄介な言い回しになってしまいますね。
概念を共有する為にどのように僕自身がインターフェースとしての言葉を
用いることが出来るのか、つまりある言語コードだけで通じる言葉をいかに
一般的な言語に還元してゆくか。
そういった点についてなるべく気をつけながら質疑に答えていたつもりでした。
今後も学問が生き残り、意味を持つ為にはそういった仲介をする立場も
必要だと強く感じているからです。
わかる人だけがわかれば良い、という時代は終わったかなと。
僕は非常に勉強になりました。
「メタ認知」も生の精神化の現れの一つとして、非常にわかり易い概念だなと感じます。
もっと一般化して説明できるように尽力したいです。

218.43.36.224 , p2224-ipbf409marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ,


24 名前:伊藤巧:2008/07/02 22:02 ID:???

続き
今後の研究ですが、まだ構想段階ですが、
ジンメルの「生の精神化」概念を、ハイデガーの存在論の一解釈に結びつけ、
存在論を用いながら、言葉になる以前の世界、経験の世界
(述語的世界、背後的世界)に対して教育哲学的に考えたいです。
そして、その中で同時代性を持つ(ポストモダンに対応しうる)
一つの倫理観を導き出してゆきたいと考えてます。
218.43.36.224 , p2224-ipbf409marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ,


25 名前:有元@管理者 ★:2008/07/03 17:01 ID:???

>>23-24 伊藤さん、ごくろうさまです。
私はかなり楽しかったです。ああいう哲学巨編もいいですね!
専門用語を仲介する件。日常のことばに変換するモードは
重要だと私は思います。翻訳と言うよりも、それがアイディアの
源泉になると私は思います。

26 名前:荒木紫織:2008/07/11 02:14 ID:???

学校教育学分野の荒木紫織です。
かなり遅くなってしまい、申し訳ありません。

7月3日 発表の概要
子どもが「大人になる」ということ
―変容する社会と〈大人―子ども〉関係―

1.「大きくなったら何になりたい?」
 子どもは、幼いころから「大きくなったら何になりたい?」と聞かれたり、
学校に通うようになると「将来の夢」の作文を書かされたりする。
それはつまり、子どもはいつも「大人になる」ことを意識している/させら
れている状況にあると考えられないだろうか。

2.「大人になる」こととは何か?
 「大人になる」ことは、生理的・社会的・心理的次元において考えること
ができる。
しかし、現代では「職業をもち自分で自分の生計を営んで」いれば、なんと
なく大人になれた気分になれてしまう。
「大人になる」ことが困難なのは、なぜか。あるいは、「大人になる」こと
はいつから困難になったのか。

3.農耕型社会における〈大人―子ども〉関係
・1960年代以前の第1次産業中心の社会
・地域共同体の中で、子どもは「小さな大人」として、大人の仕事を見よう
見真似で模倣していく
・「一人前」であることを自他共に認められ、子どもは大人の仲間入りをす

・大人と子どもは共同生活者であり、子どもにとって大人とは、将来のある
べき姿を示す
220.150.93.244 , 244.93.150.220.ap.yournet.ne.jp ,


27 名前:荒木紫織:2008/07/11 02:16 ID:???

【続き】
4.工業型社会における〈大人―子ども〉関係
・1960年代以降の第2次産業中心の社会(高度経済成長による社会構造の
変換)。
・機械化により解体される地域共同体、人々は生産者から企業の雇用者へ
・重要視される学歴と、学校化していく社会で、子どもは「生徒」となっ
ていく
・子どもは、教育が必要な未熟な存在、「人的資源」として開発する必要
があるとされる
・子どもは親世代よりも高い学歴、良い職業をめざす
・親=身近な大人は、超えるべき基準となる

5.情報・消費型社会における〈大人―子ども〉関係
・1980年代以降の第3次産業中心の現代社会。
・「生存に必要な最低限の消費」から「生活の中に個性や趣味を表現する
消費」へ(「豊かな社会」の達成)
・高卒者の半数が高等教育を受ける時代=子どもが経済力・労働力として
期待されていない
・子どもの貯蓄の増加
・消費する者を平等に受け入れる社会では、大人も子どもも消費者として
対等な存在へ

○まとめ
大人と子どもの区別がない社会では、「大人になる」ことに意義どころか、
魅力もなくなってしまい、憧れや目標としての大人は必要とされない。
「個性」や「自分らしく生きる」ことに価値が生じるのは、「あるべき大
人の姿」がないためだろう。
それは、将来を限定されない自由とも呼べるが、同時に、未来が見えない
不安を生み出すのではないか。
220.150.93.244 , 244.93.150.220.ap.yournet.ne.jp ,


28 名前:荒木紫織:2008/07/11 02:18 ID:???

【続きの続き】
○論点
・現代における「大人」/「子ども」の定義とは?
・定義が曖昧なまま使われる「大人」の概念 → 「大人っぽい」、
「子どもっぽい」
・「大人」が能力の概念になっていないか? → 関係?内在する力?
・学校の役割(個人の「能力」という視点から)→ 能力による配分/
能力という変数を用いることの意味
・大人に「なる」のか?「ならされる」のか?

○感想
1年間卒業研究で取り組んだテーマであり、実際に卒論として提出
したテーマでもあり…。
もちろん、論文を書き始める前にもゼミで発表をしてきたし、卒論
発表会も経験したのですが、何かが違う。
それは、ゼミならまず聞かれないような意見・質問が出てくるから
だと思います。
ゼミの中で「常識」になっているような考え方については、敢えて
質問する人もいないし、当然、発表する側も、そんな説明は不要と
思ってしまいがち。
だから、今回のように、専門の異なる人が集まる場での発表は新鮮
でした(説明が必要になった場面では、動揺して変な汗もかきました)。
今回実感したことは、研究を深めるためには、同じ専門の人間が集
まって進めようとしても、限界があるということです。
師事する先生から教わることとは別として、新しい視点や考え方を
探るには、客観的な視点から指摘をしてくれる人の存在が不可欠だ
と思います。
「肯定」や「納得」よりも「疑問」や「否定」の方が、研究にとっ
ては面白い刺激になります。

修論のテーマ、今もまだ具体的な方向性を決めかねています。
今回の議論の中で出てきたことをヒントに、夏休みを使って考えて
みます!
220.150.93.244 , 244.93.150.220.ap.yournet.ne.jp ,


29 名前:有元@管理者 ★:2008/07/15 12:44 ID:???

荒木さま

>だから、今回のように、専門の異なる人が集まる場での発表は新鮮
でした

その同じ理由で私もこの講義が楽しみです。
仲間内でふくらませた言説を、門外漢に伝えて鍛える、という
ループは、コトバと概念を磨くために最良の手段だと思います!

30 名前:上田梨愛:2008/07/24 16:18 ID:5CF+c/Dw

学校教育専攻の上田梨愛です。
7月10日の講義録です。遅くなってしまい申し訳ありません。
持続可能な社会の実現を目指す視点による家庭科の教科書分析について発表しました。
発表の内容は、持続可能な社会の実現を目指し
@生活課題の自覚、A個人的解決、B社会的解決、C主体的参画の4つの視点を定め、
それによる高等学校「家庭総合」の教科書分析の結果と考察です。

議論では家庭科で何を教えるのか、学校で何を教えるのかという論点が出ました。
勉強は受験のためという意味合いが強ければ、生徒が勉強は何のためにするのかという
疑問を持つのも当然だろうと思います。
受験のためではなく、生徒の役に立つ勉強とはどんなものでしょうか。
先生の生物で白血球や血小板などの成分を勉強し、その後転んで出血したときに、
生物で学んだことが初めてわかったというお話がすごく印象に残っています。
私自身もそのような体験がないか思い出そうとしましたが、
残念ながら思い出せませんでした。
でも、科学がおもしろいと感じたことはあるように思います。

実は私は日頃から、学校で何を教えたらよいのだろうという疑問を持っていたので、
今回そのような問いが出たときはどきっとしました。
勉強に対する考えがいろいろと聞けたのでよかったです。
家庭科に関していえば、家庭科はそのまますぐ実生活に役立てることが
できる内容がたくさんあります。
それは受験のための勉強とは違うものですが、
ただ実生活で使えるだけというのも、
学校で教えるべき勉強とは違うという気がします。
勉強が机上のものだけでなく、実生活で科学が実感でき、
生徒の思考を促すようなものを教えることが必要ではないでしょうか。
またそのような学習のためには、授業の方法も工夫しなければならないと思います。
学校で何を教えるか、科学と生活をどうつなげるか、
これは私の興味関心と関わるところなので、
もっと発展させて、修論にもつなげていきたいと思います。
ありがとうございました。


118.15.1.4 , p2004-ipbf2606hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


31 名前:有元@管理者 ★:2008/07/29 06:18 ID:???

>>30 上田さんごくろうさま

科学と生活をつなげる、というのは重要ですよね。
学校で教えるのは科学者になるための科学ではないと思うのです。
将来生活するための科学。運動法則の初歩を理解していたら、
子供にシートベルトさせない親はいなくなるはずですが、
相変わらず後を絶たず。結局大学に行く人のための授業であって
残りはアラビア語の呪文を聞いてる内に学校が終わってしまって
生活に使えない。もったいないですね。

小学校までの理科を呪文じゃなくてしっかり理解させたら、
へんな健康食品をだまされて買ったり、過激ダイエットで身体こわしたり
ノーヘル運転でけがしたりしなくなると思うのです。
科学的な国民を育成できたらいいなと思います。
そうでもないと、学校やってる意味がないと思うのです。

32 名前:遠藤 光泰:2008/07/31 16:28 ID:gzrrceDg

7月17日の最終回担当、学校教育専攻の遠藤です。遅くなりました。

発表の内容は、「モラトリアムについての考察」ということで、
ニートについてのアンケートを導入に、モラトリアムについての
私の見解と、先行研究から教育の中で関わりについて短く紹介させて
いただきました。

議論の中から印象に残っているものについて取り上げてみます。
・「だれがモラトリアムを否定しているのか?」
発表は、アンケート結果や新卒偏重のシステムを指摘し、モラトリアム
が社会で疎まれていることを前提に進めていきましたが、実際あの回に
参加されたみなさんは「モラトリアム肯定派」だったことから指摘を受けました。
2006年に猪口前少子化・男女共同参画担当相が「負け組は立派だ。その人たちは
戦ったのだから。本当に反省すべきは『待ち組』だ」と発言し、波紋をよびました。
こうした「モラトリアム=怠惰な若者」と一義的に解釈されることに違和感を
覚えたのが研究のきっかけになったのですが、常に変化している社会の中で、
モラトリアムに対する見方も変化していることを常に自覚していく必要性を再認識
しました。あることを自明視することや安易なラベリングの危険性はこの種の問題には
特に注意を払うべきだと感じます。「ニート」というラベリングについても議論で
指摘を受けたかと思います。これについては、「ニートって言うな!」という
本が的を射ていると思うので興味がある人はどうぞ!希望でしたらお貸しします。


203.181.32.175 , q032175.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp ,


33 名前:遠藤 光泰:2008/07/31 16:29 ID:gzrrceDg

<続き>
・理論と実践の問題
「自分の子供がモラトリアムを享受したいと言い出したら?」この問いは本当に困惑
してしまいました。笑
自分の子供が社会に出るときには願わくばモラトリアムが社会的にもう少し許容されていたら
いいなと思います。でもそれでは答えにはなっていないでしょう。
研究者が避けては通れない問題ですが、考えてみると難しい。議論でも伊藤君の「語りのコンテクスト」
という立場で理論的立場を、鈴木君がそれに対する実践的立場を代弁してくれましたが、
モラトリアムという問題でこれからその両視点を忘れないようにしていきたいと思います。
研究を机上の空論や夢物語にしないように。

この授業では、みなさんがおっしゃるとおり、いろいろな人の意見が聞けて有意義でした。
思うところはあっても、人に伝えることの難しさを感じたことも多かったです。
これからもっと…というところで最終回を迎えてしまったのは残念ですが、
各々専門を深めていく中で、またこういった場に出会えたらと思います。
半期の間でしたが、ありがとうございました。よい夏休みを!

203.181.32.175 , q032175.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp ,


34 名前:有元@管理者 ★:2008/07/31 17:15 ID:???

>>33 遠藤さんごくろうさま

> 思うところはあっても、人に伝えることの難しさを感じたことも多かったです。
> これからもっと…というところで最終回を迎えてしまったのは残念ですが、
> 各々専門を深めていく中で、またこういった場に出会えたらと思います。

大学院の授業は学問の本番の練習編です。
まさにその「これからもっと」というところを、大学を飛び出て、
研究会や学会や実践の場で研鑽し、また楽しんでください。

35 名前:書けませんよ。。。:停止

真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ

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