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2007 学習心理学講義(-特論)

1 名前:有元典文@管理者 ★:2007/04/09 15:51 ID:???

院 学習心理学講義の連絡、講義録、コメント、質問、対話用。

2005年度記録 http://www.psy.edhs.ynu.ac.jp/bbs/test/read.cgi/arimoto/1113274990/

47 名前:学校教育臨床分野 高橋 励:2007/07/02 23:17 ID:iQIHf8aY

第8回講義録 6月26日
『状況に埋め込まれた学習』p.95〜105

◇動機づけとアイデンティティ−参加の効果−

・話題の中心
  学習の動機:「共同体の一部になりたい」と思うことと、説明。(ここがミソ!)

 →「円熟した実践の場での明確な目的を持った活動に十全参加できるようになりたい」
と自ら望みそうなろうとする。

・従来の「動機づけ」:「学習者の意志とは離れたところで、学習者を操作して、
無理矢理学習に向かわせようとする」というイメージがある。

・「学校」でのオモテのカリキュラムによる学習活動
 →「メンバー性」が欠けている。でも、それが「学校」らしいところ。


◇矛盾と変化−連続性と置換−

・マルクス主義の「再生産」
 「変化こそが実践共同体および彼らの活動の根本的な特質である」

  例えば…
  日本人だって、少しずつ変わってきている。
   日本人としては、飲み食いしながら立ち歩くことはとっても不作法だったはず。
   でも、いつの頃からか、それが日常よく目にする光景になってきている。
   ※「ちょっとずつの裏切り」

  エンゲストローム→矛盾があって当然。その矛盾をどうクリアしていくかが共同体の課題。


※気がつけば月曜日。書き込み遅くなり失礼しました。
『状況に埋め込まれた学習』を読み進める中で、うなずきながら、
どこかごまかされている感じが常にまとわりついています。
すっきりしない、悶々とした感じが続いてます…。
「学校」というものをしみじみ考えてみるにはいい機会ですが。
これを書きながら、ふと、第二次世界大戦中の日本の「学校」は、
ある意味日本人としての「十全参加」への道をはっきりと示した
「理想的?」な共同体だったのでは…と思いました。
それが、良いか悪いかは別にして…。もう少し考えてみます。


125.29.2.39 , p125029002039.ppp.prin.ne.jp ,


48 名前:学校教育学 M2 大島:2007/07/03 11:26 ID:+BfMmzeA

>>46 有元先生

>ただ最近あまりに学校と現実を結びつけようと
する実用主義の運動がきつすぎて、なんだか天の邪鬼な私は
イヤ気がさしてきた気もします。意義もなく必要性も分からない
トリビアルな知も大事ですよね。

トリビアルな知を探求する実践共同体も、テクノロジーの意義が「見えて」、
だんだんテクノロジーが「見えなくなる」場なのだと思います。
テクノロジーを実用するのも「社会的世界」ですが、既存のテクノロジーを用いて
新たなテクノロジー(知も含めて)を生み出すのもまた「社会的世界」といえるでしょう。
学校においてもトリビアルな知を探求する実践共同体が生まれてくることがあれば、
それは妨げるものではないと思います。
しかし、トリビアルな知であれプラグマティックな知であれ、
学校においてそうした知を扱う実践共同体はどうしたら生まれてくるか、
またその実践をいかに妨げずに済むかということは、難しい問題ですね。


210.197.167.215 , HDOfa-01p8-215.ppp11.odn.ad.jp ,


49 名前:有元典文@管理者 ★:2007/07/07 21:28 ID:???

>>47 高橋さん、ごくろうさま

> すっきりしない、悶々とした感じが続いてます…。

それはいけませんネ。ぜひ解消しましょう。
すっきりしないところを、お聞かせ下さい。

> これを書きながら、ふと、第二次世界大戦中の日本の「学校」は、
ある意味日本人としての「十全参加」への道をはっきりと示した
「理想的?」な共同体だったのでは

過去を振り返るとそう見えるかも知れませんが、
戦争してても学校は学校だったのではないか。
戦争中かどうかよりも「学校」であることのほうが
ひとの心に作用するような気がします。

50 名前:有元典文@管理者 ★:2007/07/07 21:42 ID:???

>>48 大島さん、

> 学校においてそうした知を扱う実践共同体はどうしたら生まれてくるか、
> またその実践をいかに妨げずに済むかということは、難しい問題ですね。

制度としての学校はいろいろブチコワシなところがあると思います。
良かれと思って、考え方や手段や結果を標準化する装置なので。
人がいっぱいいるところ、という意味では、いろんな取り組みが
できそうな気がします。同好の士があつまったクラブ活動では
ずいぶん青春の血をたぎらせた思い出があります。みなさんもそうでしょう。
沸き立つさまざまの実践を妨げないためには、学校の制度があまり
アクティベイトされないようにする歯止めが必要かも。
制度じゃなくて人のチームに決定権を持たせたらいいですよね。
さて、こうした実践共同体の苗床としての学校、のダークサイドは
倫理、安全、政治の側面でしょう。化学部で爆弾作ったり、社問研で
テロったり、特定カルトと結んだり…。地域と結ぶとホンモノのメンバーと
結んでしまうかもしれない。制度としての学校ならそういう動きを
ぶちこわすと思うのですけど。面白いほどあぶなく、リアルなほど面白い。

51 名前:名無しさん@有元掲示板:2007/07/10 10:27 ID:1Cj0TWmo

第9回講義録 7月3日
「状況に埋め込まれた学習」 p.127-139
主に、「V プロト認知主義としての構造主義」における
重要点が講義で取り上げられました。その中で、捉え方が
間違っているかもしれませんが、まとめました。

(p.136 L4)「暗黙の思考の活動の痕跡」について、目の
前でみている事象が文脈から切り離し、構造だけ見ること
ができるかどうか、意見が対立している。

○暗黙の思考をプログラムに捉えようとしている、計算主
義的な意見。
Ex.)Skinner,B.F.のスキナー箱で見られる行動は、作った
行動である。いかにその行動が可視的なのか。ここでは、誰
が見ているのか、言わない。
↑ レイヴ:「頭の中だけで見ているのは変」と批判。

○レヴィ構造のように、誰に見えるか、を意識した捉え方。
レヴィは野生での認知結果より“まなざし工夫”を指摘した
ように、どういう条件からどういう時にそう見えるのか、ポ
スト-モダンな考え方をした。
 Ex.)記憶実験…無意味つづりを使用し、誰から見た記憶な
のか、可視的になるよう工夫している。
計算主義的な立場からみると、「どうして記憶が可能なのか
?」という疑問になる。
⇒これを教育現場に置き換えると、「どうして個人の学習が
見えるのか?」「どうして評価が見えるのか?」という考え
になる。

レヴィ流の構造主義の、認知心理学との対応づけ
実験室=遠くからみることで、個々の事例をみないようにし
ている。
   →“野生の実験室”=野生に出て行っているが、やっ
ていることは実験室的。
      ↓
    野生の思考の純度が保たれる。

すみません、2つに分けます。あと少し続きます。お願いします。
133.34.235.143 , pc-j013.ipcf.ynu.ac.jp ,


52 名前:学校教育臨床分野M1海原美香:2007/07/10 10:32 ID:???

上の名無しさんも、私です。学校教育臨床分野M1の海原です。
書き込みが遅くなってしまい、すみません。ご指導、ありがとう
ございました。
書きながら考えたのが、レヴィ構造での暗黙の思考の活動の痕跡
の捉え方です。学校で、例えば学力や知能など、そのきちんとし
た具体的な定義は知らないかもしれないのに何となく使用してい
る言語があると思います。目に見えないけれど、それは確かに生
活に影響しており、我々が試験など、レヴィの捉え方のようにあ
る条件からの一側面を見て、それがその子の学力の全てだと思っ
ているものではないでしょうか。そして平均値を算出するなど、
個々を1つのクラスとして遠くから見る面もあると思い、学校で
はレヴィ構造に近いものがあるかもしれないと考えました。
しか、欲張りかもしれませんが私は対立しているどちらも臨機応
変に使っていくのがよいかと思います。2つの対立など、同じ対
象をみているのに別々の異なった見方があるのは面白いと感じま
した。

133.34.235.143 , pc-j013.ipcf.ynu.ac.jp ,


53 名前:「弱い方略」小清水宣雄:2007/07/10 16:39 ID:???

第9回講義録 7月3日
『状況に埋め込まれた学習』p139−p147
W 失われた実践−行為者の抹殺と再導入
遅くなって申し訳ありません。
講義では「観察者の視点の問題」がクローズアップされた
と記憶しています。「何を、どう観察するか」という、観
察のテクノロジーについて有元先生からお話がありました。
「次回星座の論文あげる!」とのことでした・・・。

□本文について(「弱い方略」でまとめたレジュメを参考
にしてください)
・レヴィ=ストロースの構造主義的な手続きに対する批判
p141.l6
 見たいものを見てまとめるだけ。/見ようとしたら見え
るだけ。/観察者の目論見とセットになって、見えないも
の、見なくていいものを可視的にしているだけ。
【観察者の視点の問題】
・しかし・・・「構造化された側面が見出されるのは否定しが
たい事実」p142.l1であって、問題は「対象の構造的把握が
可能となるとすれば、それはどういう条件下でなのか、と
いう点を明確にすること」(p142.l2)で、「構造の問題は、
無意識におけるある抽象化された原理の問題ではなく、社会
的実践の様々な表出の問題」(p142.l7)ということになる。

59.143.59.133 , KHP059143059133.ppp-bb.dion.ne.jp ,


54 名前:「弱い方略」小清水宣雄:2007/07/10 16:40 ID:???

長すぎました。続きです・・・
・そこで・・・
社会的行為者を議論の中心に再導入すると
「心的構造という概念の中の社会的活動の、相互に異なる諸
相が見えてくる」(P142.l9)ので、「心的構造のかわりに社
会的行為者というものを分析の中心におき、彼らの実践的な
活動というものを軸に分析してみると、心的構造という発想
を支える暗黙の前提を、言わば再文脈化する事が可能になる」
(p143.l9)
 ↓
社会的行為の全体的スペクトラムの「何処に焦点を当てるか
によって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、
それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化
可能になる」(p144.l14 )
つまり・・・
◎「構造的パターンを社会的実践の文脈の中に置き換えてやる
事が大切」(p146.l9)
 「構造として見る」のと同時に「個別のケースを見る」こと
が大切ということ。
 EX)ADHDの子
    構造として見る(=診断名を先行させる)と、関わる
担任としては心の構えができてある意味対応が楽になる。しか
し、ある種のレッテル張りになり、個別のケースを見失う可能
性がある。


□「星座の論文」について
「星座コンストレーション」?
 星座とは、人間的、文化的なフィルターを通し図形を見て
いる(本物ではない)ものであり、人間は星座づくりを組織
的に行っている。(オリオン座 = 酒桝座  同じもの)
59.143.59.133 , KHP059143059133.ppp-bb.dion.ne.jp ,


55 名前:有元典文@管理者 ★:2007/07/11 07:21 ID:???

>>51-52 海原さん、>>53-54 小清水さん、どうもごくろうさま。
解説は本文より簡単であるべきですよね(^_^;
レイブ&ウェンガーが取り上げていない人類学の歴史花盛りで
より混乱を深めたかも…。人の行為を司るものがなんなのか、
社会の構造なのか、心理なのか、この興味を人間はずっと
考えてきたのですね。そのこともおもしろいことです。

56 名前:会津 律治:2007/07/18 01:08 ID:8Dkphcm2

Y 正統的周辺参加と実践共同体
◎レイヴとウェンガーのこの本の主題は、社会的実践こそが目的とされる議論の中心であり、
構造も認知もそれから不自然に分離させて研究することは出来ないとする研究である。

◎レイヴとウェンガーは徒弟制をヒントに「実践共同体」=社会的実践を、
そこへの参加の過程という形で定式化した。

◎実践共同体は−前もって「構造化」されている。
1. 実践活動を行う他の行為者間の構造(徒弟仲間や古参者、親方)
2. 実践活動に直接関係する、道具を含んだ空間の物理的な配置(道具のオープン性、
道具や親方の作業へのアクセス性)二つの構造は密接な関係があり、
齟齬→実践共同体の効率が不安定になる。

◎徒弟制は継続的学習の場であり、穏やかに変化する環境の中で社会構造の再生産を行い、
緩やかな向心的運動は、新参者から親方に向かう螺旋であるといえる。

◎行為者 ― 道具 ― 実践 (分離不可能) 全体的な配置を次第に構成
 → 道具は「透明」になっていく。
◎道具の透明性の持つ二重性格
(不可視性と可視性、盲人の使用する杖と杖の先の路面状況把握の関係)

◎社会的実践と言語の問題行為者の実践について語る構造と社会的活動形式は別に捉える
身体化された暗黙知―熟練者も上手く言えない、却って極めて図式的な説明になる、
実践活動のプロセスの中に埋め込まれた(沈黙を含んだ)発話の諸機能を分析する。

◎徒弟制的な知のあり方と学校教育のそれの違い(例えば学習の動機についての問い)
暗示的に示している
☆有元先生:学校もまた、実践共同体の場である。

◎終わりに
「状況的学習」論 = 従来の認知研究、あるいは熟練の心理学と社会的再生産を結ぶ
新たなコンフィギレーションの一つの結束点を象徴している。

※引越しのため、本を荷造りしてしまい、書き込みが遅くなった事をお詫び申し上げます。

222.13.35.37 , P222013035037.ppp.prin.ne.jp ,


57 名前:名無しさん@有元掲示板:2007/07/18 02:24 ID:Vq80P+VA

第10回 講義録 7月10日
『状況に埋め込まれた学習』p147−p155

X 構造と学習する身体
現代の社会科学の課題は、構造性と即興性の両面の解明であるという問題提起
から、社会学者のブルデューを紹介し、彼の考えるハビトゥスの概念を中心に
問題に迫ろうとするのがこの章である。

議論の中心点は、「構造化された構造であると同時に構造化する構造」であった。
授業中に様々な意見が出て参考になりました。その中で分かりやすかったのが、
「人がやっている事を自分がやる」→「やっている事をみんながする」
そのように考えるならば、正統的周辺参加は、ハビトゥスに似ている。
上記のような考え方をすると確かに捉えやすくなったような気がします。

○構造性と即興性の間の関係をどうみるかとう問い
            ↓
ドレイファスのいうエキスパートレベルにその熟練度が高まっている必要がある
(そこでは環境との相互作用は既にそれを一々意識する必要がないくらい円滑に
行われる)
           ↓   ↓
○熟練の達成を可能にする条件とは一体何なのか
          ↓   ↓   ↓
ドレイファスもブルデューも結局は解決できない。

書き込みが遅くなりまして、申し訳ありませんでした。
ハビトゥスという言葉が曖昧で分かりづらかったので、「最新 教育キーワード」
2007年に載っていた説明を載せておきます。
ハビトゥスとは、「日常生活で行為や態度を習慣化し、その結果、日常生活そのもの
を自明視させる資質の総体。それは、意識上に上ることもない。なぜなら、それは
身体化されているからである」
今回の発表で、様々な学者の名前や考え方が紹介されており、難解に感じまし
たが、発表をおえて少し理解できたように感じます。ありがとうございました。
218.110.16.96 , p6e1060.kngwnt01.ap.so-net.ne.jp ,


58 名前:学校教育学専攻 M1 井:2007/07/18 02:26 ID:Vq80P+VA

すいません。名前書き忘れました。井でした。。
218.110.16.96 , p6e1060.kngwnt01.ap.so-net.ne.jp ,


59 名前:書けませんよ。。。:停止

真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ

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