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2007 学習心理学講義(-特論)

1 名前:有元典文@管理者 ★:2007/04/09 15:51 ID:???

院 学習心理学講義の連絡、講義録、コメント、質問、対話用。

2005年度記録 http://www.psy.edhs.ynu.ac.jp/bbs/test/read.cgi/arimoto/1113274990/

2 名前:理教(地学)M2 斉藤:2007/04/11 12:49 ID:i8pefGyg

第一回講義録 4月10日(火)6限
【内容】
・「心理学」の定義とは?
→そもそもこころってあるの?(素朴理論)
⇔こころのある、なしを見分けている。
自律的=自然の力に歯向かって勝手に動く=生き物っぽい(=こころがある?)
「心理学」≠「生物学」、「脳生理学」、etc.
  ↓
「こころ」をめぐる“文化”がある。⇒物理現象とは違う!
⇒人間を客観的に科学するのは非常に難しい。
「こころ」には常に“文化”が付きまとう。
⇒「心理学」は人間だけで見ることはできない。
∴「心理学」=人間+文化
文化と切り離して考えられない。
人間は自分たちのこころを自分たちでつくり上げている。

という感じで私なりに要点をまとめてみました。
次回以降のハードルを下げてしまったかもしれませんが…。
私の専攻とは直接関係ありませんが、興味を持って講義に臨めそうです。
よろしくお願いします。

133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp ,


3 名前:学教M1 岡崎:2007/04/11 14:52 ID:+DjWHgA2

>斉藤さん
講義録ありがとうございます。
数学の証明のようで、視覚的に理解しやすいですね。

私は人間のdesireの話に興味を持ちました。
好きな人ができたら私達は何をしたくなるか。
平安時代は好きな人ができたら和歌を送っていた。
私達は「和歌を送りたくなる」desireはもたない。手を繋いだり、告白したくなる。
desireも文化とセットである、という話が面白かったです。
60.35.67.227 , i60-35-67-227.s02.a014.ap.plala.or.jp ,


4 名前:有元典文@管理者 ★:2007/04/11 16:10 ID:???

>>2 斉藤さん、上手にまとめていただいてありがとう。
「素朴理論 naive theory」について補足します。
科学的な理論とは異なる、日常の素朴な経験から作られる「理論」のこと。
地学の専門の話を今度聴かせてください。
地学(自然科学)は心理学とことなり、文化の影響を受けない、<客観的>な
真実があるのでしょうか?

>>3 岡崎さん、

desire、need や perception のように生得的に備わったものと
考えられるものの社会文化性を見ていくのがおもしろそうですね。
以下有斐閣心理学辞典より抜粋
「一次的欲求 primary need
 生得的に備わっている基本的欲求のことをさし,経験により形成される
二次的欲求と対比される。具体的には,まず飢えや渇きの欲求,排泄や睡眠の
欲求のような生理的欲求があげられる。これらの生起は身体内部の状態を一定
に維持する仕組であるホメオスタシスに規定される。ほかに内発性の欲求として,
接触の快を求める欲求や刺激を求める欲求,探索や活動の欲求も生得的なもので
一次的欲求として位置づけられる。」

5 名前:理教(地学)M2 斉藤:2007/04/17 19:30 ID:Olkk9Mf2

遅くなって申し訳ありません。
地学においても100%客観的な真実はないと私は思います。
学部の時の教官が、研究発表で海外に行くと、欧米系の学者は
宗教に対する信仰心が強く、根付いているため、最終的に
神の力として片付けたがる、と言っていたことを思い出しました。
もちろん大げさに表現したとは思いますが、自然科学の分野に
おいても文化の影響は大きいことが感じ取れます。
133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp ,


6 名前:理教(地学)M1 伊藤:2007/04/17 21:13 ID:Olkk9Mf2

[連絡事項]
・5月1日は休講です。限りある休暇を楽しみましょう。
・輪読テキスト(買わなくても良い)⇒状況に埋め込まれた学習/ジーン・
レイヴ&エティエンヌ・ウェンガー 著/佐伯胖 訳/産業図書

[講義内容]
・正統的周辺参加
⇒学習者が、ある技量を持つ共同体へ参加することで、苦にすることなくその
技術を身につけていく学習理論。学習に関して、個人だけを見ずに、
個人が参加した社会にスポットを当てた考え方。
物事の「できるようになった」という判断基準は完璧な境界はなく、社会的に
可視的になった出来事ではないだろうか?
(例)
・赤ちゃんが立った・歩いたという基準
・子どもが自転車に乗れたという基準
・英語が話せるようになるという基準
・生徒が理解したという基準
・料理の世界で一人前になったという基準
このように挙げればきりがないが、全て、客観的事実として認定し難いもの
である。技量を測るには判断基準が曖昧である。
しかし、例えば大工の世界では「1人前の技量を身につけたい」という目的
がはっきりして学習者が参加するが、学校ではどうだろうか?
「何(誰)になりたい」という目的意識はなく、迫真性に欠ける。

 以上、分かりにくいですが、私なりにまとめさせていただきました。
そういえば、生徒の理解度を測る手段として、テストがあります。テスト結果
から生徒の学習の理解度を点数化するのですが、テスト結果は教師の教える
技量を点数化するものという考え方はないのでしょうか?点数が悪い⇒教え方
が悪いという意識はなぜか隠れてしまいますが、私は大切なことだと思います。
133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp ,


7 名前:有元典文@管理者 ★:2007/04/18 20:49 ID:???

>>5 斉藤さん
>地学においても100%客観的な真実はないと私は思います。

機会があればこのことも話題にしたいと思います。
サイエンスウォーズと呼ばれた、科学を社会的な実践として
研究する社会学者と、科学を自然界の客観的真実の記述と捉える科学者
との論争があったのです。

>>6 伊藤さん

講義録ありがとうございます。お二人とも地学ということは
河潟先生のとこですか。かれとは仲良しです(^_^)

テストも<社会的に>学習者の理解を可視的にするデバイス(工夫)ですね。
前回の話のテーマは、このように<社会的に>露わにされる以外の
内なる学習というのがあり得るか、ということでした。

テストが教師の技量を示す道具にもなり得るというのは、
その通りでしょう。塾講師のバイトしていたとき、教室毎の
平均値の隔たりというのは、講師の技量の重要な指標(リソース)でした。
ほかよりさがんないようにガンバってました。

8 名前:分野(M1) 赤澤夏嘉:2007/04/25 13:05 ID:3wL2cPLE

<2007/04/24のレジュメ>
ウィリアム・F・ハンクスの序文 (p5〜20)
・著者は、“『状況に埋め込まれた学習』は、
  人間の理解とコミュニケーションが状況に
  埋め込まれている。
  という性質を研究する人間科学の成果の増加に、
  貢献の一つとしている”(p6.l16)と述べている。
   学習を特定のタイプの社会的共同参加という
  状況の中におき、どのような社会的関わり合いが
  学習の生起に適切な文脈を提供するかを問う考え方
  であるから(p7.l4)…と。
学習=LPPという緩やかな条件の中で生じる過程。(p7.l11)
  =社会的世界でのあり方。
(学習者の学習の文脈+文脈が生成される社会的世界)
    (p19.l15)
  =一実践ないしいくつかの実践の集合体。(p21.l2)


<講義録>
序文を読み、著者の所属していると思われる
シカゴ大学を調べてみる過程で、この本が
「実践的なアプローチ」という教育に通ずるもの
を感じた。
シカゴ大学はデューイが務めていたので、
この状況的学習理論の考えにいたるには、
「learning by doing」も影響を与えているの
ではないかと考えた。
1章に読み進めると、そのような文章もあった。
そこで、私の所属する総合学科高校の目玉とも
いえる総合的な学習の時間について紹介した。

序文では、LPPや状況に埋め込まれた学習を読む
うえで、従来の学習理論の大きく2つの視点を
転換する必要性があること(p10〜)と、
この理論がどんなことに貢献していくかと
いう点を捉えられればいいと感じた。
序文の著者は、色々な表現をかえ、
LPPについて説明しようとしているが、
一番分かりやすいのは、
p19辺りの説明ではないだろうか。



61.204.208.227 , 61.204.208.227.customerlink.pwd.ne.jp ,


9 名前:分野(M1) 赤澤夏嘉:2007/04/25 13:11 ID:3wL2cPLE

序文その2
<質疑応答のときの有元先生からの補足>
この序文は、学習って、経験によって考え方や
理解が変わることだけど、学ぶことでこの
集団組織自体変わってしまうこともあったら、
それをどう説明するか?
→学習を個人レベルで捉えるのではなく、
社会や文化、集団レベルで捉えているのが、
LLPであると述べている。

Q:この理論からすると、学習は、
複数人いなければ本当に成立しないのか?
A:集団への不参加、無関与では学べないと
いうことになる。
また、無人島で一人きりだったとしても、
人工物や人の作った文明と関わっている中で
生じる変化は、決して孤独な個人だけの生じる
学習ではない。

Q:知識のポータブルとは?
A:誰かの知識を丸ごと転写することは、
不可能。他者の技術を見て盗む、
身に付けた知識を他で活用や応用ができる
ことをさす。

<講義を終えて>
所属校で捉えているコミュニケーションに
必要な3つの要素の「間」のつく言葉を考えて
もらうワークも実施した。
正解は「時間」、「空間」、「仲間」でしたが、
私も他にコミュニケーションに大切な
間のつく言葉は本当にないのかと疑問を持ったときに、
思いついた「人間」という言葉をあげてくれた
人が多くいた。
以前に、
“「人」は人と人の間で文化や様々な
ことを学んで「人間」になる”という
言葉を聞いたことがあり、耳に残っていたからだ。

それなら、学習の成果が人間になることなのか…。
人間でないとコミュニケーションに参加できないのか…。
まだまだ答えがはっきりしない。
レジュメの図で、人間のところにあえて「間」
という漢字を入れず、また3要素とは別にして
位置づけたのには、そんな苦悩があったからだ。

この本の輪読を進めていく中で、
少しでも答えに近づければいいなぁ…と思う。

61.204.208.227 , 61.204.208.227.customerlink.pwd.ne.jp ,


10 名前:学教(M2) 前原まき子:2007/04/25 18:59 ID:s3Pk036Y

学習とは副産物である。

実践共同体に参加する,参加した結果として知識や技能が身に付くということ。
例)・引っ越し屋をやっていたら筋肉がついた。
  ・院生になって論文をたくさん読んでいたら読解力がついた。

学校という場はこの逆の発想をしている。
知識を入れたら,トレーニングをしたらできるようになるという発想
例)・筋肉をつけたら引っ越し屋になれる。
  ・読解力をつけたら院生になれる。

まず実践が先にあって,特に意図していなくても身につく,それが学習。

有元先生の補足をうけて,「好きこそものの上手なれ」という言葉と
意味が近いのかなぁという連想をしました。




133.34.73.111 , psy17.edhs.ynu.ac.jp ,


11 名前:ありもと@管理者 ★:2007/04/25 22:43 ID:???

>>8-9 赤澤さん、どうもありがとう。LLPじゃなくてLPPですよ!
しっかりアイスブレイクしてくれて楽しかったです。さすが現職。
学習の成果は人間になることなのか?
LPPの理論では、あの先輩(大人、熟練者、親方)みたいになること、です。

>>10 まっきー、ごくろうさま。
好きこそものの…、まさにそういうことです。
LPPはおばあちゃんの知恵袋みたいなものですね笑

○レジュメに本文頁行を入れる
○報告は大事なところと分からなかったところをコンパクトに
○議論に時間を割きましょう
来週も楽しみにしてます。

12 名前:学教M2 紅林裕子:2007/05/08 21:43 ID:gNsZ69I6

第4回講義録(2007/5/8) 第1章 正統的周辺参加(P.9-20)

*正統性 権力関係を含む概念、参加(=学習)の必要条件
     所属の仕方を決める要因(誰として参加するか)
*周辺性 共同体における参加の位置、社会的世界での位置づけ
     中心は存在しない、周辺的な行為から中心が浮かびあがってあるように見える
    ⇔進行中の活動への無関係性、非関与性
     周辺的であろうと参加をした時点で、その共同体の一部となる

 社会的実践が主であり、その一側面が学習である

学校 知識は脱文脈化できると主張 =特殊な文脈としての学習
   学んだ抽象的知識はいつ使ってる?ベクトルは?物理の公式は?
学校だけで使う学習(=特殊な文脈)学校ゲーム?

正統的周辺参加 =学習に新鮮な目を向ける分析的視座

では、学校にどのように応用可能か...
Lave&Wengarは学習の常識を壊すきっかけ(見方)を与えた
これからどのように作り上げていくか...
133.34.73.109 , psy15.edhs.ynu.ac.jp ,


13 名前:有元典文@管理者 ★:2007/05/11 14:07 ID:???

>>12 紅林さんありがとう。宿題の「ダブルバインド」ですが、
エンゲストロームの本に詳しいです。(拡張による学習、p.198-)
「バラバラな個人的行為だけでは解決され得ない社会的な、
社会にとって本質的なジレンマ」とのこと。「そのジレンマの
なかでこそ、共同の協働的行為は歴史的に新しい活動の形態を出現
させることができる」

14 名前:M1 岡崎:2007/05/14 15:17 ID:VXVqtmbM

書き込んだつもりが、今見たら載ってませんでした(>_<)
本当に申し訳ないです!!

第4回講義録(2007/5/8) 第2章 実践、人、社会的世界(P.21-28)

本章では、この本のキモの一部が書かれていたように思います。
社会的実践の理論は、活動や意味の関係論的相互依存性を強調する。
そこでは、活動や意味・人間の関係は世界と共にあり、
生産・再生産され変化し続けるものであるとする。
学習も人間の歴史的生産・変容・変化である。

学習者であるようにみえるのはどのような場面か?
失敗・質問等、他の共同体構成員に比べ劣る点が可視化されて、
初めて学習者にみえる。
映画監督であれば、個人がある活動に苦戦している場面をとり、
そのエラーが少なくなり、出来るようになる場面を撮る。
学習者であり続けるのも難しいことである。

学習者とはどのような存在か?
実践共同体の中で、人・モノに関与的に変化し続ける存在。

私なりにこの章を1文でまとめると
「実践者と活動システムとの相互行為の中で、
共同体自体も生産・再生産され変容する」
といった感じです。

この章は抽象的な表現が多く「わかったつもり」になりやすいかも。
3章の具体例や、「拡張による学習」とともに読むと、
また解釈が変わってくるように思います。
218.47.86.209 , i218-47-86-209.s02.a014.ap.plala.or.jp ,


15 名前:有元@管理者 ★:2007/05/15 16:55 ID:???

>>14 岡崎さんありがとう。
「社会的実践の理論は、行為者、世界、活動、意味、認知、学習、
さらに知ることに関係論的相互依存性を強調する」(p26.l10)というのが大事ですね。

16 名前:学教M1 大西:2007/05/15 21:54 ID:nMQjWxrs

第5回講義録(2007/05/15)第2章 実践、人、社会的世界(p.28-36)

【学習における人とアイデンティティ】
アイデンティティの定義
⇒人間と、実践共同体における場所およびそれへの参加との、
長期にわたる生きた関係

正統的周辺参加で説明されるアイデンティティは、従来のアイデンティティ
とは別物である。

アイデンティティ、知ること、成員性は、関係の中で互いに他を規定する。
ゆえに、完全には内化も外化もされ得ない。
【社会的世界】
学習の基本的形態は、社会的実践への参加である。

学習は、たんなる転移や同化のプロセスではない。
学習、変容、変化は、常にお互いに関係づけられている。
現状維持は、学習、変容、変化と同じ程度に説明を必要とする。
学習、変容、変化、現状維持はいずれも関係の中で規定される。









222.145.21.124 , p9124-air01hon32k.tokyo.ocn.ne.jp ,


17 名前:有元@管理者 ★:2007/05/16 18:28 ID:???

>>16 大西さん、ごくろうさま。変化=学習は関係の中にある、というのが
私には大変興味深いのです。所与(given)と思われるものを、相互行為に
よる達成と見てみたい。

18 名前:学教 M1 脇山美希:2007/05/23 08:36 ID:???

5月22日発表分の講義録(p.46〜52より)

【まとめ】
 ここでは、実践共同体の中で十全的参加に至るまでのプロセスを、ユカタン
の産婆やヴァイ族とゴラ族の仕立屋を例に示していた。

《ユカタンの産婆》
 ユカタンの産婆の産婆術は、何年もかけて周辺的参加から十全的参加にむかう。
 この過程において、ユカタンの産婆は産婆になる環境がもともとあり、特別
に熟練者(親方)から学問として教えてもらわなくても、日常生活の流れの中
で産婆術を身に付けていく。これがユカタンの産婆の育成のされかたであり、
自分が熟練者になるために後継者へ教える事もない。また、家族の系譜に沿っ
て伝承されるため、産婆の徒弟とはみなされない。

《ヴァイ族とゴラ族の仕立屋》
 ヴァイ族とゴラ族の仕立屋は、儀式に従って徒弟制に入り、またそこを去る。
この徒弟制は公式的なものであり、その背景には、家族の中のみの生産から、
家族から離れたところでの生産へと生活の様式が変化したことがあげられる。
彼らはこの徒弟制に入ることで、親方、職人などを観察し、衣服を作る全過程
と完成品をじっくり観察できる、持続的で豊富な機会が得られる。

 このように、ユカタンの産婆やヴァイ族とゴラ族の仕立屋では、非公式的あ
るいは公式的という違いはあるが、徒弟制を通し実践共同体の中で十全的参加
に至るまでのプロセスにおいては強い類似性があり、机上ではなく、実践(お
かれている状況)の中で学習している。
123.218.239.2 , p5002-ipbf1104hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


19 名前:学教 M1 脇山美希:2007/05/23 08:39 ID:???

続き
【いただいた意見等】
1.みなさんの初めて体験
☆スポーツの初試合
・練習とは別のものだと感じた。
・練習通りにはいかなかった。
・軽いパニックになり、臨機応変に対応できなくなった。
☆記者体験
・普段は取れているコミュニケーションが記者という立場になったとたんに成
 立しなくなってしまい、メモしていることの一問一答になってしまった。
☆初給食指導
・空腹なのに、大勢での食事の雰囲気にびっくりしてしまい、給食が食べられ
 なかった。
☆初授業
・それまでに、子どもたちとのコミュニケーションがとれていたので、過度な
 緊張はしなかった。

【その他のご意見等】
・徒弟が仕事をこなせるようになると、組織の役に立つ → 学校にはない仕組み。
・徒弟がどこまで仕事ができるようになっているのか、を見抜ける熟練者はす
 ごい。=アクセスの仕方を親方がきちんとみている。
・仕立屋の部分で、素朴なカリキュラムがあるところがおもしろい。
・この事例のようなことは、学習心理学ではあまり考えない部分であり、新鮮なところ。
・産婆にならないという選択肢はあるのか?
 →江戸時代の家長制度みたいなもので、伝統業務が続くようにそこで生きて
  いくしかない状態にしてきたのではないだろうか。

 たくさんの体験談やご意見をいただき、ありがとうございました。人それぞ
れの初めて体験を聞かせていただく中で、多くの方が初めて体験の記憶を鮮明
に保持していることが分かり、興味深かったです。
 また、今日の発表で改めて日本語の発音の難しさを痛感しました。少しの間
“ユカタン”恐怖症になりそうです(笑)。
123.218.239.2 , p5002-ipbf1104hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


20 名前:学教M2 前原:2007/05/23 11:32 ID:aDzMOumw

授業中には発言できなかったのですが、うちの兄は花屋です(笑)

花屋になるステップは分からないっていうあたりで、考えていたのですが。
兄の場合は、有名な花屋を探してきて、そこで働くことをまず始めました。
それまでは花の名前もろくに知らなかったのに、花屋として働くことを通して
「花屋とは何か」を学んでいたように思います。

何かになるためには、自分からその実践共同体に入り込んでいくことが近道だ
ということを私たちは意識していないけど分かっているのだと思います。
なので、何かになりたいと思ってそれに近づこうと働きかけるかどうかの違いが
その職業につけるかつけないかの違いだと思いました。

というようなことを考えていました。
220.108.117.252 , i220-108-117-252.s02.a014.ap.plala.or.jp ,


21 名前:有元@管理者 ★:2007/05/23 12:05 ID:???

>>19 ユカタン、じゃなかった脇山さん、ごくろうさまです。

初めての独り立ち、とか、学習の諦め、とか
そういう生々しいリアルな「学習心理学」をやりたいものです。
みなさんのエピソードがたいへん勉強になります。

>>20 まっきーさん
ちょっと花屋修行の話をじっくりきいてみたいですね。
花屋の子じゃなくても縁もゆかりもなくても
花屋になれるんですね。次回詳細希望んぬ。
お兄さん呼んでください。

22 名前:学教M1 鐘ヶ江:2007/05/28 15:22 ID:6KesG+4w

大変遅くなってしまい、申し訳ありません。

『状況に埋め込まれた学習』p52-60 講義録

前ページに続き、徒弟制の具体例を示している。
@海軍の操舵手
チームでの学習(チームワーク)を通して技術を獲得し、十全的参加へと向かう。
学習には学ばれるべきことに対する正統的で、効果的にアクセスを手に入れる
ことの重要性を強調している。

A肉加工職人
講習と実習を経て実践を行うが、職人は店の都合に左右されてしまい
その先は学習ではなくなる。
そして、作業の全領域を学ぶことはめったになく、
この例から、徒弟制は必ずしも効果的である、というわけではない。


☆個々の作業は全体の中のどこに位置付いているかわからず、
 再生産にまで繋がらないから個別の作業だけでは正当な後継者になりえない。
 正当な後継者になりうるか否か、が徒弟制の善し悪しを決めている。


133.34.73.120 , psy26.edhs.ynu.ac.jp ,


23 名前:社会(M1) 中井:2007/05/28 21:45 ID:2//aHBmI

講義録の書き込みが遅くなってしまって、すみません。

『状況に埋め込まれた学習』
 第3章 産婆、仕立屋、操舵手、肉屋、断酒中のアルコール依存症者

 これまで行われてきた徒弟制の民族誌的研究は、学習と仕事の関係が不可分のもので
あることを明らかにしてきた。
 徒弟制のような形態に比べて、学校教育は教育的伝承には効果的で、より発展した
機関であると通常はみなされている。学校教育についての理論と学校制度は共通の
発生源をもっているため、このような学校を鋳型にした理論は必然的に特殊なものになる。
→特殊な制度としての学校教育

〈徒弟制の事例〉
 徒弟制は歴史的に有意義な形態として、ほとんどの教育的現象よりも頻繁にとりあげられて
きた。だが、それは廃れた教育を意味するものとしてである。
 徒弟制を狭義に解釈して、それがいつでもどこでもヨーロッパの封建時代と同様に組織されて
いるものとする考え方は問題である。(プリント ガラス細工マニュファクチュアの徒弟制)
 徒弟制の形態は、他にもある歴史的な伝統の中で、古代中国、封建時代やそれ以外のヨーロッパ、
さらに西アフリカやアメリカを含む今日の世界で述べられてきた。今日のアメリカでは、高水準の
知識と技能が要求されるところでは、多くの学習がなんらかの形での徒弟制で生じている。

〈徒弟制の5つの研究〉
 これから取り上げられる徒弟制の事例は、以下のとおりである。
 メキシコのユカタン地方のマヤ族の産婆たち
 西アフリカのリベリアのヴァイ族とゴラ族の仕立屋たち
 アメリカ海軍の操舵手の作業習得場面
 アメリカのスーパーの肉屋
 アルコホリックス・アノニマスにおける断酒中のアルコール依存者たち
(有元先生は、アルコール・アノニマスにおける12のステップを憶えられていた)

〈論点〉
 現在、徒弟制が生じているような学習には、どのようなものがあるか?
 大学院における少人数教育
 師匠が弟子に稽古をつける琴の練習
 先輩後輩関係によって運営される体育会

 なぜ、徒弟制が生じているような学習が存在するのか?
 後継者の育成が目的とされているのではないか
219.67.24.232 , HDOfb-05p4-232.ppp11.odn.ad.jp ,


24 名前:M1 柳澤:2007/05/29 20:32 ID:VuqTCKYU

講義録「徒弟制と状況的学習−新たな検討課題」

意図的な学習状況ではなく成員性の根拠にアクセスすることが中心
⇔ああいう人たちになること≠あの人になること
熟練のアイデンティティはカリキュラムとか目標が設定しがたい・・・

学校はアクセスが自由な場であるが、
リアルでは権力と統制などによりアクセスが大いに制限された場である。

資源(resorce)とは、誰にとっても資源となるわけではなく、
誰かによって資源化されるものである。

自分が文科大臣になったら何をするか?


今回の発表では、高校野球を例にとってやらせていただきました。
常々感じていることは、
強豪チームに所属している選手ほど自分の実力のなさを実感し、
弱小チームにいる選手ほど自分の実力を過信しているということ。
これは「自分を見る見方」というアイデンティティなのではないかと感じています。
有元先生がおっしゃっていたように、
脱落していく、もしくは淘汰されていく学習心理学の研究は画期的だと思います。

ありがとうございました。

133.34.235.34 , pc-k004.ipcf.ynu.ac.jp ,


25 名前:M1 佐野  :2007/05/29 23:23 ID:???

講義録「断酒中のアルコール依存症者の徒弟制」

 著者が尤も示したかったことは、AAを通して自己のアイデンティティを
どのように変容させていくのかということ。
 ここで言うアイデンティティとは、自分を見る尺度であり、ものを見る一
つのスケールであること。「他者からの見方」とは、表面的に見えるものを
見てその人を判断すること。つまり、その人の内面を判断材料としているの
ではない。この点が心理学や教育学で捉えているアイデンティティと異なる
点である。
 AA会員が話すストーリーは自分が誰かを示す指標であり、自分を理解す
る道具として重要な役割を果たしているということ。

 ここでいうアイデンティティとアセスメントとの関係は、アセスメントを
「自分を見る見方」と捉えた場合参照基準としてなら同じと考えて良い。
 アルコール依存症者の徒弟制と他の徒弟制との大きな違いは、他の徒弟制
が仕事に直結したものであるのに対し、これはそうではないこと。

 「教師にはならない。」と決意して企業を回り、10回以上の面接を受け
ているうちに最後には「教師になります。」と自ら言ってしまった・・・こ
れは、自ら決断を下したのだけれど、相手との話のやり取りの中で自分の特
性を見つけだしていったという点でこの徒弟制と重なる部分が大きいと感じ
た、というお話を伺い、なるほど!と納得しました。

 有り難うございました。
 
121.107.206.188 , KD121107206188.ppp-bb.dion.ne.jp ,


26 名前:M1 岡崎:2007/05/29 23:31 ID:zbsqEmQc

>佐野さん
変容するアイデンティティの話はとても興味深かったです。

別のテーマですが、今日言いそびれちゃったので書き込みします。
学校教育におけるアクセス制限に関してです。

<学校ゲームを行う場としての学校にアクセス制限はない>
教師はアクセス制限のある課題(アルコールランプを取り扱わないと
解決できない課題等)を児童に課さない。
そのため、教師から課された課題に答える(=学校ゲーム)という範囲では、
児童にアクセス制限はないように思います。

<知識の獲得の場としての学校にはアクセス制限はある>
教師は各学年の教科学習内容を超える内容を授業で取り扱いたがらない。
実体験だと、つるかめ算を連立方程式で答えたら怒られましたwww
アクセスできない解法、理論等がある。

という意見を持ちました。
60.35.68.163 , i60-35-68-163.s02.a014.ap.plala.or.jp ,


27 名前:M1 佐野  :2007/05/30 07:36 ID:???

岡崎さんへ。
 鶴亀算を連立方程式で解いてしかられたとのこと、
それは、しかった先生が悪い。私は、初任の時鶴亀算
を鬼ごっこをしているときの自分と友達の脚を使って
といた子がいましたが、誉めましたよ。算数は、頂上
は一つかもしれませんが、登山道は様々です。学習は
その過程が大事だと強く考えます。だから、その点で
はアクセス制限はないし、してはいけないと思うので
すが・・。
 いかがですか。
121.107.206.188 , KD121107206188.ppp-bb.dion.ne.jp ,


28 名前:M1 佐野  :2007/05/30 22:25 ID:???

岡崎さん
 「学校ゲームを行う場としての学校にアクセス制限はない」という考えには
 賛成ですが、「知識の獲得の場としての学校にはアクセス制限はある」とい
 う考えには疑問を感じます。鶴亀算を連立方程式で答えたら怒られたという
 ことですが、その先生が、連立方程式を利用したということに対して怒った
 のでしたら、それは先生が悪い!と思います。算数を山登りに例えれば、
 頂上は一つかもしれませんが、そこへ到る登山道はたくさんあっていいはず
 です。学習は成果よりもその過程が大事だと考えています。自分が発見した
 道が一番いい道なのかどうかについては、友達が探したいろいろな道をたど
 ってみて自分で判断してみます。こちらがこの方法がいいだろうと思っても、
 子どもによっては違う方法の方が自分にはあっていると判断する場合もあり
 ます。それはそれでいいじゃないかと思うのです。そうして学習を身につけ
 ていくものだと考え、日々実践しています。ですから、私は知識獲得の場と
 しての学校にもアクセス制限はないし、出来る限りつくってはならないと考
 えますが、いかがでしょうか。
121.107.206.188 , KD121107206188.ppp-bb.dion.ne.jp ,


29 名前:M1 佐野  :2007/05/30 22:38 ID:???

 掲示板を同じ目的で2回も使ってしまって申し訳ありません。
 帰宅後掲示板を確認したときには朝書き込んだものは見あたら
なかったので(と思うのですが)もう一度書き込んでしまった次
第です。消すことが出来なくて恥ずかしく思っています。
 すみませんでした。
121.107.206.188 , KD121107206188.ppp-bb.dion.ne.jp ,


30 名前:有元@管理者 ★:2007/06/03 00:33 ID:???

>>22 鐘ヶ江さん、ご苦労様でした。
良い徒弟制、悪い徒弟制、という概念は考察の余地在りですね。

>>23 中井さん、ありがとう。
徒弟制を操作的に定義することが出来るでしょうか。
構造的には何でも徒弟制なのでは。

>>24 柳沢さん、お疲れ様です。
文部大臣になったら…。ほんと困りますね(^_^;)

>>25 佐野さん、ありがとうございます。
アイデンティティをリソースとする考えは面白いと思います。


31 名前:M1 岡崎:2007/06/06 00:14 ID:DNb+BJZ2

>佐野さん
温かい返答ありがとうございます。書き込み遅くなって申し訳ないです!!

私が教師になったら・・・ということをよく考えるのですが、
授業で学習指導要領を超える内容を児童が答えたら、焦ってしまい
「それはまた今度ねー」などと言ってしまう気がします。。。
うまくアクセス制限をなくせてこそ、ベテラン教師なのかもしれませんね。

佐野さんに担任をして欲しかったです(笑)
121.113.60.10 , i121-113-60-10.s02.a014.ap.plala.or.jp ,


32 名前:M1 野田頭:2007/06/06 21:48 ID:???

『状況に埋め込まれた学習』講義録 P76〜83
知識の在処と、参加、学習のカリキュラム、実践共同体などについて
今までの論点をさらに具体化して示している。

*参加の重視
新参者は「実践の文化」を学ぶやり方としての参加をすることで、
共同体の実践を構成しているものが何かというスケッチを行う。
・誰が関与しているか・何をやっているか
・熟練者はどんな風に話し、歩き、仕事をし、どんな生活を営んでいるか…etc.
 →作り上げる全体像についての具体的な説明が初めてされた。

*学習のカリキュラム
新しい実践の即興的展開のための状況に埋め込まれた機会
学習者の視点から見た日常実践における学習の資源がおかれている場
⇔教育のカリキュラムとの対比

*実践共同体
人と活動と世界の間の時間(歴史的な)を通しての関係の集合であり、
またそれに接したり重なり合ったりしているほかの共同体との
関係を持っている。
知識は実践共同体内にある。
実践の知識・技能は実践の中にある。
学習の成立は実践共同体の再生産のサイクルと関る。

ところどころに、学校教育に対する揶揄的表現が見られた。
特に高校で物理を学習するグループについての記載など…
・学校の徒弟になっている。
・学校化された人々の共同体

◎実践する事と実践を学ぶ事とは全く違う事である。
 学校の中では、ルールや規則を学びぶ等より一般化されたものを教授されるが、
 その中で学校でのやり方を学ぶこともまた一つの実践となる。
 しかし、学校の中には具体性がない。
◎誰かであることと、何をするかということとは一致している。






                  
210.226.25.43 , 210-226-025-043.jp.fiberbit.net ,


33 名前:有元@管理者 ★:2007/06/08 20:56 ID:???

>>32 野田頭さん、ありがとうございます。
「学習のカリキュラム」ってわざわざ言う意味が分かりました。
学習環境のデザイン、のような意味なのですね。

34 名前:M1 青崎:2007/06/08 22:11 ID:DDhOgMkg

『状況に埋め込まれた学習』講義録 p.71〜76
「実践における学習のための構造化の資源」

◎ 親方−徒弟の関係と正統性
・ 親方−徒弟の関係は多様であり、学習に偏在しているものですらない
・ 正統的なアクセスが徒弟に保証される形態は、実践共同体が位置づいている社会的環境での分業の特徴に依存

◎ 学習=即興で生み出される実践
・ teaching⇔learning
・ 教育のカリキュラム⇔学習のカリキュラム(教授学的ではない)

・ 徒弟制=学習者同士の学習関係で多くを学ぶ
cf.『優しい共同体の無視』(benign community neglect)について
本番の空間⇔本番から離れた空間(ex.仕立屋→余った布で徒弟たちが何かを作る)
※ 共同体=<学習者同士の関係>と<学習者と古参者の階層的関係>との結びつきが強固なものという前提があることになる

◎ 状況的アプローチにおける脱中心化方略
・ 学習・・・個人の学習者の概念→実践共同体における正統的周辺参加の概念
・ 徒弟−親方の関係・・・熟練=親方の中→親方がその一部である実践共同体の組織の中
・ 教育者としての親方・・・教える行為→共同体の学習の資源の複雑な構造化
※ 脱中心化について
the central motive(p.74,l.13「中心的原動力」/p.75,l.2「中心的な目的」)
 ;「誰かの意図(motive)がある」と考えることも中心的
中心があることの否定→関係論的p.30,l.8〜l.13
124.86.120.111 , p2111-ipbf508hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


35 名前:M1 青崎:2007/06/08 22:20 ID:DDhOgMkg

言葉の意味や、過去に出てきた内容などを消化しきれていないまま発表してしまって、
混乱を招いてしまったかもしれず、すみません!
本書に対する自分の立ち位置も、きちんと言えるようになりたいと思います。

野田頭さんが担当なさった箇所では、
知識やその在処は実践の中にあり、実践共同体が「〜時間を通しての関係の集合」
という部分が先生の説明を聞いてしっくりきました。
前にも言ったように学部時代にスポーツ新聞を作っていたんですが、
「こういうレイアウトをしてはいけない」「こういう言葉で締めてはいけない」
等様々なルールがありました。
周辺参加しているうちに当たり前の知識になるんですが、
それは必ずしも他の新聞と共通のルールではないのです。
先輩方が新聞を作る中で、かっこ悪いレイアウトになってしまったり、
記事同士が似たような内容になったりする失敗を通じてわかってきた、
歴史を伴う知識だなぁと実感していたからです。

124.86.120.111 , p2111-ipbf508hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


36 名前:有元典文@管理者 ★:2007/06/09 00:28 ID:???

>>34-35 あおさきさん、ご苦労様です。
「実践の歴史性」というようなテーマになるエピソードですね。
この掲示板も歴史性を意識しています(^_^)


37 名前:有元典文@管理者 ★:2007/06/19 15:12 ID:???

何度もアイデンティティという概念があらわれますね。
いま心理学におけるこの概念の提唱者であるE.H.エリック、嘘、
E.H.エリクソンの「アイデンティティ」という本をざっと読みました。
1968年の本の70年の邦訳です。どうもエリクソン自身、またはアイデンティティ
研究そのもののアイデンティティが危機でした。ベトナム戦争、
公民権運動、ユースカルチャー、そういうもので揺れ動いてる。
大人の倫理の重要性を語りながらも揺れてる。そういう点で再解釈
が可能ではないでしょうか。感想でした。

38 名前:関口@障害児:2007/06/19 22:59 ID:???

『状況に埋め込まれた学習』講義録 p.89-95

講義録になっていない気もするのですが、せっかくなので
養護学校の職員室での「会話」の一例をご紹介したいと思います。
また、長くなってしまったので分割して書き込みます。

事例掲載にあたり、登場者はベテラン教員と若手教員とし、
会話は簡潔にまとめます。

『美術の時間に非常ベルを押したAさんの事例』

Aさん(自閉症)は穏やかな性格で、いつもは教員の話を聞いて落ち着いて
創作活動に取り組むことができます。しかし、その日は授業開始から10分後に
突然教室を飛び出して、廊下の非常ベルを押してしまいました。

(職員室での会話)
若「突然立ち上がり走って行ったので、止めることができませんでした。
  でも何故?あんなことをしたのでしょう?」
べ「昼休みは何をしてたの?」
若「先週の美術の作品が終わってなかったので早く美術室に行って仕上げていました。」
べ「それで、それは終わったの?」
若「5時間目(美術)が始まる時間になったので、途中でやめました。」
べ「Aさんは引き続きそれをでききると思っていて、さらに完成させたかったのでは…」
若「そうか…急に終わりにされて、新しい課題を出されて…それでパニックに…」
べ「やはり、自閉症は急な予定の変更や、見通しのもちにくい活動は苦手だよね。
  それに、Aさんの意思の表出方法はまだまだ課題があるね。そう言えば、
  以前、街中でパニックになった時、お店の非常ベルを押したことがあるって、
  お母さんから聞いたことがあるのを思いだしたよ。」
若「そうですか…次からは気をつけます。」

122.16.63.187 , p4187-ipbf709hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


39 名前:関口@障害児:2007/06/19 23:00 ID:???

この会話の中には、その日の出来事(=情報)である「実践の中での語り」があり、
さらに、自閉症の特徴(=伝承)や過去のエピソード(=物語)である
「実践についての語り」があると考えられます。
若手教員が、昼休みの活動からの経過を追ってAさんの行動を「語ること」ができるように
なることがベテランへの道であると思いました。

また、過去のエピソードは、保護者からの言語的教授でしかなかったけれども、
この事例により実際の実践になったと考えました。

若手教員にとっては、自閉症の対応を含めてトータル的に…
美術の時間の行動しか見ていなかった、ベテラン教員にとっては
Aさんの行動の見立てとして、この会話が透明性を生んだのではないかとも考察できます。

最後に…
今回の発表を通じて、毎日何気なく職員室で交わされている会話の捉えが大きく変わりました!
別件ですが、「課題分析」をやってみると結構おもしろいですよ!
例えば…”自動販売機でジュースを買う”は、お金を入れることや、売り切れの確認、さらに
あの横に長い取り出し口から、どこにブツがあるか推測して手をのばして取り出すことなど考えると、
目的のものを買うためには多大な課題があります。皆さんもぜひ考えてみて下さい。
122.16.63.187 , p4187-ipbf709hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


40 名前:有元典文@管理者 ★:2007/06/21 17:52 ID:???

>>38-39 関口さん、ありがとございます。
この語りの例は興味深い。
体験をどう語るか、ということをテーマに今年の教育心理学会で
自主シンポをします。以下に企画書を掲載します。
「経験と言葉が出会うとき」という発表がこの内容に近いと思います。
興味が在れば是非ご参加下さい。

---------------------
「体験による学び」を考える

  企画者 文野 洋 (東京都立大学 人文学部)
  司会者 亀井美弥子(東京都立大学大学院 人文科学研究科)
話題提供者 土倉英志 (首都大学東京大学院 人文科学研究科)
      森下 覚 (東京学芸大学大学院 連合学校教育学研究科)
      北條綾子 (武蔵工業大学大学院 環境情報学研究科)
指定討論者 有元典文 (横浜国立大学 教育人間科学部)
      岡本依子 (湘北短期大学)

【企画趣旨】
「自然体験」「職業体験」など、「体験」をその中心に据えた取り
組み(体験学習プログラム)は、成人を対象とするものも含め、多
くの学習・教育現場で定着してきた。しかし、体験学習についての
研究は、体験の前後で同一の測度を比較するものや、参加者のエピ
ソードの記述から「生きた体験の効果」を措定するものが主流であ
り、「体験」がもたらす「学び」の意義やプロセスが十分に検討さ
れてきたとは言い難い。そもそもどうなれば「体験」から「学んだ」
と言えるのだろうか。どのような「体験」から何を「学ぶ」のだろ
うか。さらには、それらの「学び」を支えるためにはどのような学
習環境のデザインが必要とされるのであろうか。
本シンポジウムでは、さまざまな体験と学びの場の事例をもとに、
話題提供者がそれぞれの立場から、「学び」や「体験」の意味をあ
らためて問い直す。具体的には、小学生や中学生を対象とした乳幼
児ふれあい体験、大学生を対象とした新たな教育実習のとりくみ、
防災をテーマとした小学校の総合的学習の実践研究から、「体験に
よる学び」が成立する文脈とその記述の方法、「体験による学び」
を支える学習環境のあり方について話題提供を行う。
指定討論を通じて、「体験による学び」の実践についての論点を整
理し、これらの実践をより有意義にしていくために、参加者の方々
とともに議論を深めていきたい。

【話題提供】
経験と言葉が出会うとき
−乳幼児ふれあい体験における学び
土倉英志

語りが経験を媒介することで成り立つ、「これはそれである」、
「それはこれである」という形式の学びに焦点をあてる。本報告で
は、2006年の夏に実施した乳幼児ふれあい体験ワークショップ(以
降、WS)での学びをとりあげる。WSは首都大学東京(東京都立大学)
体験学習研究会と近隣の保育園や保育施設の協力のもと行われたも
ので、小中学生の子どもたちが3日間を通じて子育てを体験するこ
とを中心にした実践研究であった。本報告では学びについての自由
記述の回答をとりあげる。
子どもたちが学んだことを大きくわけると、自ら経験したこと、他
者が語ったこと、語りが経験を媒介したことに分類できる。自ら経
験したこととは、赤ちゃんを見たり、ふれることで子ども自身が見
いだしたことである。他者が語ったこととは、保育士やお母さんが
語ってくれたことで、自分の経験からは知りえないこと、たとえば、
赤ちゃんの成育史が当てはまる。語りが経験を媒介したこととは、
他者の語りが自分の経験の意味づけを助ける学びである。この学び
は経験だけ、あるいは語りだけでは成り立たない。たとえば、ある
行為を観察しても、その行為が一体何なのかわからないことがある。
そのとき、他者がその行為は「寝返りの練習である」と教えてくれ
ることで、その行為の意味ははじめて理解できる。また、「人見知
り」という現象があることを知ってはいても、まさに目の前で起こ
っていることが、人見知りと呼びうるものであると教えてもらうこ
とがある。こうした学びは、「これはそれである」、「それはこれ
である」といった経験と言葉の対応づけに関する学びであり、経験
と語りがともにあることで成り立つものといえる。

教育実習における体験的学びと社会的制約
森下 覚
従来、小学校教員養成のための教育実習は、3年次に、4週間程度小
学校で実習を行ってきた。その実習の指導は、現場の教師に委ねら
れており、大学教員が介入することはほとんどない。本発表の対象
であるA大学の教員養成のための新しい取り組みでは、3年次に行な
う正規の教育実習とは別に、大学の初年度から、週1回の全日、小
学校で実習を行い、年間を通して児童の指導にあたらせている。こ
の取り組みでは、現場の教師だけではなく、大学教員、スーパーバ
イザーとしての退職校長が学生の指導にあたる。学生は、従来の教
育実習と違い、学年の早い時点で実習を行い、自らの実習を多様な
評価の視点にさらし、体験・学習することが可能になる。本発表は、
ある小学校での実習に参加した2人の学生の学習環境と学習過程の
紹介である。
 具体的には以下の3点について話題提供をする。(1)教員養成の新
しい取り組みの学習環境のデザインについて、(2)2人の学生の体験
学習における変化の記述、(3)体験の社会的制約について。特に(3)
では、体験による学びの性質に注目し、それに伴って浮き彫りにな
る学習の性質について紹介したい。あらゆる文化において体験をし
ようとする際、その文化特有の何らかの社会的(空間的/経済的/制
度的)な制約が存在し、そのため最初から十全的な参加(Lave, J.,
& Wenger, E., 1991)を行なうことは難しい。しかし、こうした社
会的制約は、学習を妨げるものだけではなく、むしろ、体験者に行
為の目的を付与し、学習を方向付ける役割を持つ。これらのことを
事例と共に考察し、紹介しようと思う。
(本発表における調査は、横浜国立大学の有元典文氏と東京大学大
学院教育学研究科の尾出由佳氏との共同研究である。)

小学校の総合的学習における学習環境のデザイン
―児童の学びの分析―
北條綾子
これまで総合的学習において、学校外部との連携を重視する学習は
多く実践されてきた。しかし、そのような学習のリソースが子ども
たちにとって十分に機能していないことが多い。そこで本研究では、
学習のリソースの“導入の仕方”を改善すべきだと考え、その体系
化を試みた。
この検証として、中村雅子氏(武蔵工業大学)がコーディネートを
した、小学校6年の総合的学習のフィールドワークを行った。
総合的学習の時間での問題は、人間が実生活の中で出くわす問題と
同じように、多様に生じてくる。その解決にその都度対応していく
ためには、専門知識を持った人間がある程度継続的に関わる必要が
ある。そのため、研究室側は情報モラルやメディアリテラシーの専
門家として、極力毎時間出向くとともに、Web上でコミュニケーシ
ョンが可能な、NOTAというツールで大学と小学校との連携を図った。
これにより継続的な連携ができ、やり取りの中で子どもたちから自
発的な問いが発生した。また、NOTAで自由に書き込み可能な個人ペ
ージを設け、クラス内の全員が相互に参照できるよう設定した。そ
の結果、対面のコミュニケーションでは見えなかったPCスキルな
どの能力が可視化された。そこで子どもたちは“クラスの子どもた
ち”というリソースに気づき、教え合いがうまれた。
本報告では、総合的学習の時間が豊かなものになるポイントを示す。
具体的には、外部との連携を継続的に維持し、子どもにとって一番
身近なリソースである“クラスの子どもたち”を学習に生かした事
例を紹介する。


41 名前:M1 柳澤:2007/06/21 17:54 ID:jfPmkAbU

関口さんのおっしゃるとおり、養護学校では靴下をはかせる等、
自分たちにとってはごく当たり前のようにできることを、
教えなければならないというご苦労をつくづく考えさせられました。
そこで、授業では数学の例をあげさせていただいたのですが、
授業後、野球において考えてみました。
最初のうちは、ボールの投げ方やバットの振り方、打球処理のやり方など、
課題分析をしながら基礎的なを教えていくことになります。
数学でもそれは変わらないと思います。
しかし、スポーツ独特な現象は、
今までできていたことができなくなるということです。
自転車は一度乗ることを身につけてしまえば一生乗ることができるでしょう。
しかし、他のスポーツも同じだと思いますが、スランプに陥るという現象があります。
以前は取れていた球がとれなくなったり、打てていた球が打てなくなったりします。
野球の指導をしていた一番悩ましいのはちょうどこの場面なのです。
できなかったことをできるようにするより、
以前できていたことを再びできるようにする作業は指導者のみならず、
本人にとっても非常に苦しいものです。

このような心理学をかんがえるのもなかなか面白いのではないかと思い書きこみしてしまいました・・・

133.34.235.155 , pc-j025.ipcf.ynu.ac.jp ,


42 名前:有元典文@管理者 ★:2007/06/21 17:55 ID:???

>>38 の対話ですが、どうもベテランから初任への一方的な決めつけにも読めますね。
こうした事象に正解があるのか、それともあまたある解釈のひとつなのか、
そういう観点で議論するのも面白いです。

43 名前:学校教育学 M2 大島:2007/06/25 08:07 ID:4FA3r566

遅くなって申し訳ございません。
6月19日講義録
第4章 実践共同体における正統的周辺参加
    アクセスの問題――透明性と隔離性 (P83-89)
○テクノロジーの不可視性への道筋――実践と理解の相互関係による学習過程
 ・テクノロジーの不可視性とは、直接対象に向かうようになると、媒介して
  いるテクノロジーが見えなくなるということ。
  たとえばロックバンドのギタリストが演奏によって感情を表現するまでに
  いたるとき、おそらくギターのテクノロジーは見えなくなっている。
 ・不可視的にテクノロジーが利用できるようになるためには、テクノロジー
  の意義が見える必要がある。
 ・(不可視的なテクノロジーの利用を可能にする)テクノロジーの意義は、
  文化的実践に参加することによってしか見えてこない。
  たとえば「こう弾けばロックっぽくなる」というテクノロジーの意義は、
  ロックという文化に参加をしていなければ「見えない」。
○アクセスの隔離性
 ・肉屋の徒弟は「善き実践」にアクセスできないという意味で周辺的ではな
  い。
 ・学校では社会的世界に参加しない。

以上の議論をふまえると、新参者が十全的参加へ開かれるための条件として
は、
・実践に参加しながらテクノロジーの意義が見える
・あくまで目的は、文化的実践への十全的参加でありテクノロジーの理解では
 ない
・「善き実践」にアクセスできる
といったポイントが挙げられると思います。
学校は社会的世界から隔離されてしまうということですが、授業中に紹介した
「麦チョコの数を平等に分ける」ところから始まる「平均」の授業は、「お父
さんの1年間ビール代」や「トイレットペーパーの使用量」などを調べるまで
にいたります。
学校における文化的実践も、テクノロジーが必要になる文脈を用意することで
その意義を可視化できれば、社会的世界に開かれるのかもしれません。
テクノロジーの意義が見えなければ、学校に閉じた単なるゲームとして消費さ
れてしまうでしょう。

220.212.106.75 , HDOfa-05p3-75.ppp11.odn.ad.jp ,


44 名前:地学 M2 斉藤:2007/06/28 15:30 ID:vBhHrgYU

第8回講義録 6月26日
『状況に埋め込まれた学習』P.123-126
解説 認知という実践―「状況的学習」への正統的で周辺的なコメンタール −福島 真人−

序(P.123-125)
 心理学一般(認知科学)⇔社会科学
・レイヴとウェンガー
    ↓
◎今まであまり交わることのなかったこの二つの領域に、極めて錯綜した形で橋渡しをした。

T 認知科学と心の三角形(P.125-126)
 ・認知科学と社会科学の相応関係を図式的に呈示
           ↓
  まずは、認知科学について…◎心の三角形=行動主義、認知主義、意識派(現象学主義)

 ○行動主義
  ・外的に観察可能な行動に関心を集中。
  ・内部構造には触れない。
  ・刺激−反応図式で全てを説明。
 ○認知主義
  ・内部構造に注目。
  ・コンピューターの情報処理に見立ててモデル化。
  ・認知過程は「無意識的」なプロセス。
 ○意識派(現象学主義)
  ・意識的経験を強調。
  Ex.)個人的経験の主観的な肌触り(クオリア)、ブレンターノ流の志向性
  ・その立場から前者の双方を批判。

以上。
導入的な部分でしたので特に議論の対象となるようなことはありませんでしたが、
個人的には新しい知らない用語がたくさん出てきたので、それを調べていくのが
楽しかったです。さらに個人的なことですが、最近市川伸一氏の本を読んでいて、
ちょうど認知科学について触れていたので、これからの講義で理解が深まることが
期待できます。タイミングいいです。

133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp ,


45 名前:地学 M1 伊藤:2007/06/29 19:42 ID:oxc3ClrU

第8回講義録
「状況に埋め込まれた学習」P107〜110
第5章 結論

著者らは、学習に関する伝統的な概念から離れ、見方を共同体も含む広い
視野を持つことで、学習を成立させるものについてのより包括的な見方を
可能とした。
→正統的周辺参加における、学ぶとはどういうことかについての長期的な
幅広い捉え方は、人間の経験における学習の豊かな意味合いをより一層
包括するものである。

正統的周辺参加において、人は実践者となる。古参者になっていく新参者
となる。そして、実践者の変化していく知識、技能、談話は
アイデンティティの発達部分となる。

世界における意味と行為について…実践共同体において、新参者、
古参者(十全参加者)にとって、行為は必ずしも一致した意味をもたない。
→人によって行為の意味というのは変わってくるということは、意味と行為
は人によって結び付けられていくもの。

正統的周辺参加の捉え方では
@円熟した実践の場におけるその位置によって動機付けられ、向心的方向
に移動する。
A実践共同体の歴史と発達のサイクルは、実践者の変化によって
再生産されていく。

 理系の石頭で本書の中身を理解することは非常に苦労しました(今でも
分かったつもりでいて理解していないかもしれません)。正統的周辺参加
の考え方と学校現場での学習の考え方は矛盾が多くて自分で納得すること
ができませんでした。しかし、本書の冒頭にも書かれていたように、
正統的周辺参加という捉え方の枠組みを学校にそのまま当てはめて議論
することは困難だということをなんとなく感じました。結局この先
どうなっていくのか気になるところですが、学習という概念に対して
違う見方で考えるきっかけをくれた本書は新鮮で良かったと思います。

133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp ,


46 名前:有元典文@管理者 ★:2007/07/01 20:37 ID:???

>>43 大島さん

>学校における文化的実践も、テクノロジーが必要になる文脈を用意することで
その意義を可視化できれば、社会的世界に開かれるのかもしれません。

まさに!ただ最近あまりに学校と現実を結びつけようと
する実用主義の運動がきつすぎて、なんだか天の邪鬼な私は
イヤ気がさしてきた気もします。意義もなく必要性も分からない
トリビアルな知も大事ですよね。そっから実用にいたることも
おおいわけで。数学には実用に起源を持つものと、知的な取り組みに
起源を持つものがあるように、どっちも行きたいものです。

>>44 斉藤さん、ごくろうさま

> 個人的には新しい知らない用語がたくさん出てきたので、それを調べていくのが
楽しかったです。

いいですね、研究者の実践だ。調べたことをレジュメに掲載してくれても資料性が
たかまって良いです。お役に立てるなら、認知科学のことどうぞ聴きに来て下さい。

>>伊藤さん、おつかれさま

>正統的周辺参加という捉え方の枠組みを学校にそのまま当てはめて議論
することは困難だということをなんとなく感じました。

理論は世界を違えて見せる眼鏡ですよね。
日常に学びが充ち満ちていて、それが案外効果的で、
いっぽうでフォーマルな学習である学校は、と振り返るときの
眼鏡。そういう変わったもののみかたをさせてくれた本だと
思います。

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