■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50

2007 学習心理学講義(-特論)

1 名前:有元典文@管理者 ★:2007/04/09 15:51 ID:???

院 学習心理学講義の連絡、講義録、コメント、質問、対話用。

2005年度記録 http://www.psy.edhs.ynu.ac.jp/bbs/test/read.cgi/arimoto/1113274990/

39 名前:関口@障害児:2007/06/19 23:00 ID:???

この会話の中には、その日の出来事(=情報)である「実践の中での語り」があり、
さらに、自閉症の特徴(=伝承)や過去のエピソード(=物語)である
「実践についての語り」があると考えられます。
若手教員が、昼休みの活動からの経過を追ってAさんの行動を「語ること」ができるように
なることがベテランへの道であると思いました。

また、過去のエピソードは、保護者からの言語的教授でしかなかったけれども、
この事例により実際の実践になったと考えました。

若手教員にとっては、自閉症の対応を含めてトータル的に…
美術の時間の行動しか見ていなかった、ベテラン教員にとっては
Aさんの行動の見立てとして、この会話が透明性を生んだのではないかとも考察できます。

最後に…
今回の発表を通じて、毎日何気なく職員室で交わされている会話の捉えが大きく変わりました!
別件ですが、「課題分析」をやってみると結構おもしろいですよ!
例えば…”自動販売機でジュースを買う”は、お金を入れることや、売り切れの確認、さらに
あの横に長い取り出し口から、どこにブツがあるか推測して手をのばして取り出すことなど考えると、
目的のものを買うためには多大な課題があります。皆さんもぜひ考えてみて下さい。
122.16.63.187 , p4187-ipbf709hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,


40 名前:有元典文@管理者 ★:2007/06/21 17:52 ID:???

>>38-39 関口さん、ありがとございます。
この語りの例は興味深い。
体験をどう語るか、ということをテーマに今年の教育心理学会で
自主シンポをします。以下に企画書を掲載します。
「経験と言葉が出会うとき」という発表がこの内容に近いと思います。
興味が在れば是非ご参加下さい。

---------------------
「体験による学び」を考える

  企画者 文野 洋 (東京都立大学 人文学部)
  司会者 亀井美弥子(東京都立大学大学院 人文科学研究科)
話題提供者 土倉英志 (首都大学東京大学院 人文科学研究科)
      森下 覚 (東京学芸大学大学院 連合学校教育学研究科)
      北條綾子 (武蔵工業大学大学院 環境情報学研究科)
指定討論者 有元典文 (横浜国立大学 教育人間科学部)
      岡本依子 (湘北短期大学)

【企画趣旨】
「自然体験」「職業体験」など、「体験」をその中心に据えた取り
組み(体験学習プログラム)は、成人を対象とするものも含め、多
くの学習・教育現場で定着してきた。しかし、体験学習についての
研究は、体験の前後で同一の測度を比較するものや、参加者のエピ
ソードの記述から「生きた体験の効果」を措定するものが主流であ
り、「体験」がもたらす「学び」の意義やプロセスが十分に検討さ
れてきたとは言い難い。そもそもどうなれば「体験」から「学んだ」
と言えるのだろうか。どのような「体験」から何を「学ぶ」のだろ
うか。さらには、それらの「学び」を支えるためにはどのような学
習環境のデザインが必要とされるのであろうか。
本シンポジウムでは、さまざまな体験と学びの場の事例をもとに、
話題提供者がそれぞれの立場から、「学び」や「体験」の意味をあ
らためて問い直す。具体的には、小学生や中学生を対象とした乳幼
児ふれあい体験、大学生を対象とした新たな教育実習のとりくみ、
防災をテーマとした小学校の総合的学習の実践研究から、「体験に
よる学び」が成立する文脈とその記述の方法、「体験による学び」
を支える学習環境のあり方について話題提供を行う。
指定討論を通じて、「体験による学び」の実践についての論点を整
理し、これらの実践をより有意義にしていくために、参加者の方々
とともに議論を深めていきたい。

【話題提供】
経験と言葉が出会うとき
−乳幼児ふれあい体験における学び
土倉英志

語りが経験を媒介することで成り立つ、「これはそれである」、
「それはこれである」という形式の学びに焦点をあてる。本報告で
は、2006年の夏に実施した乳幼児ふれあい体験ワークショップ(以
降、WS)での学びをとりあげる。WSは首都大学東京(東京都立大学)
体験学習研究会と近隣の保育園や保育施設の協力のもと行われたも
ので、小中学生の子どもたちが3日間を通じて子育てを体験するこ
とを中心にした実践研究であった。本報告では学びについての自由
記述の回答をとりあげる。
子どもたちが学んだことを大きくわけると、自ら経験したこと、他
者が語ったこと、語りが経験を媒介したことに分類できる。自ら経
験したこととは、赤ちゃんを見たり、ふれることで子ども自身が見
いだしたことである。他者が語ったこととは、保育士やお母さんが
語ってくれたことで、自分の経験からは知りえないこと、たとえば、
赤ちゃんの成育史が当てはまる。語りが経験を媒介したこととは、
他者の語りが自分の経験の意味づけを助ける学びである。この学び
は経験だけ、あるいは語りだけでは成り立たない。たとえば、ある
行為を観察しても、その行為が一体何なのかわからないことがある。
そのとき、他者がその行為は「寝返りの練習である」と教えてくれ
ることで、その行為の意味ははじめて理解できる。また、「人見知
り」という現象があることを知ってはいても、まさに目の前で起こ
っていることが、人見知りと呼びうるものであると教えてもらうこ
とがある。こうした学びは、「これはそれである」、「それはこれ
である」といった経験と言葉の対応づけに関する学びであり、経験
と語りがともにあることで成り立つものといえる。

教育実習における体験的学びと社会的制約
森下 覚
従来、小学校教員養成のための教育実習は、3年次に、4週間程度小
学校で実習を行ってきた。その実習の指導は、現場の教師に委ねら
れており、大学教員が介入することはほとんどない。本発表の対象
であるA大学の教員養成のための新しい取り組みでは、3年次に行な
う正規の教育実習とは別に、大学の初年度から、週1回の全日、小
学校で実習を行い、年間を通して児童の指導にあたらせている。こ
の取り組みでは、現場の教師だけではなく、大学教員、スーパーバ
イザーとしての退職校長が学生の指導にあたる。学生は、従来の教
育実習と違い、学年の早い時点で実習を行い、自らの実習を多様な
評価の視点にさらし、体験・学習することが可能になる。本発表は、
ある小学校での実習に参加した2人の学生の学習環境と学習過程の
紹介である。
 具体的には以下の3点について話題提供をする。(1)教員養成の新
しい取り組みの学習環境のデザインについて、(2)2人の学生の体験
学習における変化の記述、(3)体験の社会的制約について。特に(3)
では、体験による学びの性質に注目し、それに伴って浮き彫りにな
る学習の性質について紹介したい。あらゆる文化において体験をし
ようとする際、その文化特有の何らかの社会的(空間的/経済的/制
度的)な制約が存在し、そのため最初から十全的な参加(Lave, J.,
& Wenger, E., 1991)を行なうことは難しい。しかし、こうした社
会的制約は、学習を妨げるものだけではなく、むしろ、体験者に行
為の目的を付与し、学習を方向付ける役割を持つ。これらのことを
事例と共に考察し、紹介しようと思う。
(本発表における調査は、横浜国立大学の有元典文氏と東京大学大
学院教育学研究科の尾出由佳氏との共同研究である。)

小学校の総合的学習における学習環境のデザイン
―児童の学びの分析―
北條綾子
これまで総合的学習において、学校外部との連携を重視する学習は
多く実践されてきた。しかし、そのような学習のリソースが子ども
たちにとって十分に機能していないことが多い。そこで本研究では、
学習のリソースの“導入の仕方”を改善すべきだと考え、その体系
化を試みた。
この検証として、中村雅子氏(武蔵工業大学)がコーディネートを
した、小学校6年の総合的学習のフィールドワークを行った。
総合的学習の時間での問題は、人間が実生活の中で出くわす問題と
同じように、多様に生じてくる。その解決にその都度対応していく
ためには、専門知識を持った人間がある程度継続的に関わる必要が
ある。そのため、研究室側は情報モラルやメディアリテラシーの専
門家として、極力毎時間出向くとともに、Web上でコミュニケーシ
ョンが可能な、NOTAというツールで大学と小学校との連携を図った。
これにより継続的な連携ができ、やり取りの中で子どもたちから自
発的な問いが発生した。また、NOTAで自由に書き込み可能な個人ペ
ージを設け、クラス内の全員が相互に参照できるよう設定した。そ
の結果、対面のコミュニケーションでは見えなかったPCスキルな
どの能力が可視化された。そこで子どもたちは“クラスの子どもた
ち”というリソースに気づき、教え合いがうまれた。
本報告では、総合的学習の時間が豊かなものになるポイントを示す。
具体的には、外部との連携を継続的に維持し、子どもにとって一番
身近なリソースである“クラスの子どもたち”を学習に生かした事
例を紹介する。


41 名前:M1 柳澤:2007/06/21 17:54 ID:jfPmkAbU

関口さんのおっしゃるとおり、養護学校では靴下をはかせる等、
自分たちにとってはごく当たり前のようにできることを、
教えなければならないというご苦労をつくづく考えさせられました。
そこで、授業では数学の例をあげさせていただいたのですが、
授業後、野球において考えてみました。
最初のうちは、ボールの投げ方やバットの振り方、打球処理のやり方など、
課題分析をしながら基礎的なを教えていくことになります。
数学でもそれは変わらないと思います。
しかし、スポーツ独特な現象は、
今までできていたことができなくなるということです。
自転車は一度乗ることを身につけてしまえば一生乗ることができるでしょう。
しかし、他のスポーツも同じだと思いますが、スランプに陥るという現象があります。
以前は取れていた球がとれなくなったり、打てていた球が打てなくなったりします。
野球の指導をしていた一番悩ましいのはちょうどこの場面なのです。
できなかったことをできるようにするより、
以前できていたことを再びできるようにする作業は指導者のみならず、
本人にとっても非常に苦しいものです。

このような心理学をかんがえるのもなかなか面白いのではないかと思い書きこみしてしまいました・・・

133.34.235.155 , pc-j025.ipcf.ynu.ac.jp ,


42 名前:有元典文@管理者 ★:2007/06/21 17:55 ID:???

>>38 の対話ですが、どうもベテランから初任への一方的な決めつけにも読めますね。
こうした事象に正解があるのか、それともあまたある解釈のひとつなのか、
そういう観点で議論するのも面白いです。

43 名前:学校教育学 M2 大島:2007/06/25 08:07 ID:4FA3r566

遅くなって申し訳ございません。
6月19日講義録
第4章 実践共同体における正統的周辺参加
    アクセスの問題――透明性と隔離性 (P83-89)
○テクノロジーの不可視性への道筋――実践と理解の相互関係による学習過程
 ・テクノロジーの不可視性とは、直接対象に向かうようになると、媒介して
  いるテクノロジーが見えなくなるということ。
  たとえばロックバンドのギタリストが演奏によって感情を表現するまでに
  いたるとき、おそらくギターのテクノロジーは見えなくなっている。
 ・不可視的にテクノロジーが利用できるようになるためには、テクノロジー
  の意義が見える必要がある。
 ・(不可視的なテクノロジーの利用を可能にする)テクノロジーの意義は、
  文化的実践に参加することによってしか見えてこない。
  たとえば「こう弾けばロックっぽくなる」というテクノロジーの意義は、
  ロックという文化に参加をしていなければ「見えない」。
○アクセスの隔離性
 ・肉屋の徒弟は「善き実践」にアクセスできないという意味で周辺的ではな
  い。
 ・学校では社会的世界に参加しない。

以上の議論をふまえると、新参者が十全的参加へ開かれるための条件として
は、
・実践に参加しながらテクノロジーの意義が見える
・あくまで目的は、文化的実践への十全的参加でありテクノロジーの理解では
 ない
・「善き実践」にアクセスできる
といったポイントが挙げられると思います。
学校は社会的世界から隔離されてしまうということですが、授業中に紹介した
「麦チョコの数を平等に分ける」ところから始まる「平均」の授業は、「お父
さんの1年間ビール代」や「トイレットペーパーの使用量」などを調べるまで
にいたります。
学校における文化的実践も、テクノロジーが必要になる文脈を用意することで
その意義を可視化できれば、社会的世界に開かれるのかもしれません。
テクノロジーの意義が見えなければ、学校に閉じた単なるゲームとして消費さ
れてしまうでしょう。

220.212.106.75 , HDOfa-05p3-75.ppp11.odn.ad.jp ,


44 名前:地学 M2 斉藤:2007/06/28 15:30 ID:vBhHrgYU

第8回講義録 6月26日
『状況に埋め込まれた学習』P.123-126
解説 認知という実践―「状況的学習」への正統的で周辺的なコメンタール −福島 真人−

序(P.123-125)
 心理学一般(認知科学)⇔社会科学
・レイヴとウェンガー
    ↓
◎今まであまり交わることのなかったこの二つの領域に、極めて錯綜した形で橋渡しをした。

T 認知科学と心の三角形(P.125-126)
 ・認知科学と社会科学の相応関係を図式的に呈示
           ↓
  まずは、認知科学について…◎心の三角形=行動主義、認知主義、意識派(現象学主義)

 ○行動主義
  ・外的に観察可能な行動に関心を集中。
  ・内部構造には触れない。
  ・刺激−反応図式で全てを説明。
 ○認知主義
  ・内部構造に注目。
  ・コンピューターの情報処理に見立ててモデル化。
  ・認知過程は「無意識的」なプロセス。
 ○意識派(現象学主義)
  ・意識的経験を強調。
  Ex.)個人的経験の主観的な肌触り(クオリア)、ブレンターノ流の志向性
  ・その立場から前者の双方を批判。

以上。
導入的な部分でしたので特に議論の対象となるようなことはありませんでしたが、
個人的には新しい知らない用語がたくさん出てきたので、それを調べていくのが
楽しかったです。さらに個人的なことですが、最近市川伸一氏の本を読んでいて、
ちょうど認知科学について触れていたので、これからの講義で理解が深まることが
期待できます。タイミングいいです。

133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp ,


45 名前:地学 M1 伊藤:2007/06/29 19:42 ID:oxc3ClrU

第8回講義録
「状況に埋め込まれた学習」P107〜110
第5章 結論

著者らは、学習に関する伝統的な概念から離れ、見方を共同体も含む広い
視野を持つことで、学習を成立させるものについてのより包括的な見方を
可能とした。
→正統的周辺参加における、学ぶとはどういうことかについての長期的な
幅広い捉え方は、人間の経験における学習の豊かな意味合いをより一層
包括するものである。

正統的周辺参加において、人は実践者となる。古参者になっていく新参者
となる。そして、実践者の変化していく知識、技能、談話は
アイデンティティの発達部分となる。

世界における意味と行為について…実践共同体において、新参者、
古参者(十全参加者)にとって、行為は必ずしも一致した意味をもたない。
→人によって行為の意味というのは変わってくるということは、意味と行為
は人によって結び付けられていくもの。

正統的周辺参加の捉え方では
@円熟した実践の場におけるその位置によって動機付けられ、向心的方向
に移動する。
A実践共同体の歴史と発達のサイクルは、実践者の変化によって
再生産されていく。

 理系の石頭で本書の中身を理解することは非常に苦労しました(今でも
分かったつもりでいて理解していないかもしれません)。正統的周辺参加
の考え方と学校現場での学習の考え方は矛盾が多くて自分で納得すること
ができませんでした。しかし、本書の冒頭にも書かれていたように、
正統的周辺参加という捉え方の枠組みを学校にそのまま当てはめて議論
することは困難だということをなんとなく感じました。結局この先
どうなっていくのか気になるところですが、学習という概念に対して
違う見方で考えるきっかけをくれた本書は新鮮で良かったと思います。

133.34.74.164 , koike2.edhs.ynu.ac.jp ,


46 名前:有元典文@管理者 ★:2007/07/01 20:37 ID:???

>>43 大島さん

>学校における文化的実践も、テクノロジーが必要になる文脈を用意することで
その意義を可視化できれば、社会的世界に開かれるのかもしれません。

まさに!ただ最近あまりに学校と現実を結びつけようと
する実用主義の運動がきつすぎて、なんだか天の邪鬼な私は
イヤ気がさしてきた気もします。意義もなく必要性も分からない
トリビアルな知も大事ですよね。そっから実用にいたることも
おおいわけで。数学には実用に起源を持つものと、知的な取り組みに
起源を持つものがあるように、どっちも行きたいものです。

>>44 斉藤さん、ごくろうさま

> 個人的には新しい知らない用語がたくさん出てきたので、それを調べていくのが
楽しかったです。

いいですね、研究者の実践だ。調べたことをレジュメに掲載してくれても資料性が
たかまって良いです。お役に立てるなら、認知科学のことどうぞ聴きに来て下さい。

>>伊藤さん、おつかれさま

>正統的周辺参加という捉え方の枠組みを学校にそのまま当てはめて議論
することは困難だということをなんとなく感じました。

理論は世界を違えて見せる眼鏡ですよね。
日常に学びが充ち満ちていて、それが案外効果的で、
いっぽうでフォーマルな学習である学校は、と振り返るときの
眼鏡。そういう変わったもののみかたをさせてくれた本だと
思います。

47 名前:学校教育臨床分野 高橋 励:2007/07/02 23:17 ID:iQIHf8aY

第8回講義録 6月26日
『状況に埋め込まれた学習』p.95〜105

◇動機づけとアイデンティティ−参加の効果−

・話題の中心
  学習の動機:「共同体の一部になりたい」と思うことと、説明。(ここがミソ!)

 →「円熟した実践の場での明確な目的を持った活動に十全参加できるようになりたい」
と自ら望みそうなろうとする。

・従来の「動機づけ」:「学習者の意志とは離れたところで、学習者を操作して、
無理矢理学習に向かわせようとする」というイメージがある。

・「学校」でのオモテのカリキュラムによる学習活動
 →「メンバー性」が欠けている。でも、それが「学校」らしいところ。


◇矛盾と変化−連続性と置換−

・マルクス主義の「再生産」
 「変化こそが実践共同体および彼らの活動の根本的な特質である」

  例えば…
  日本人だって、少しずつ変わってきている。
   日本人としては、飲み食いしながら立ち歩くことはとっても不作法だったはず。
   でも、いつの頃からか、それが日常よく目にする光景になってきている。
   ※「ちょっとずつの裏切り」

  エンゲストローム→矛盾があって当然。その矛盾をどうクリアしていくかが共同体の課題。


※気がつけば月曜日。書き込み遅くなり失礼しました。
『状況に埋め込まれた学習』を読み進める中で、うなずきながら、
どこかごまかされている感じが常にまとわりついています。
すっきりしない、悶々とした感じが続いてます…。
「学校」というものをしみじみ考えてみるにはいい機会ですが。
これを書きながら、ふと、第二次世界大戦中の日本の「学校」は、
ある意味日本人としての「十全参加」への道をはっきりと示した
「理想的?」な共同体だったのでは…と思いました。
それが、良いか悪いかは別にして…。もう少し考えてみます。


125.29.2.39 , p125029002039.ppp.prin.ne.jp ,


48 名前:学校教育学 M2 大島:2007/07/03 11:26 ID:+BfMmzeA

>>46 有元先生

>ただ最近あまりに学校と現実を結びつけようと
する実用主義の運動がきつすぎて、なんだか天の邪鬼な私は
イヤ気がさしてきた気もします。意義もなく必要性も分からない
トリビアルな知も大事ですよね。

トリビアルな知を探求する実践共同体も、テクノロジーの意義が「見えて」、
だんだんテクノロジーが「見えなくなる」場なのだと思います。
テクノロジーを実用するのも「社会的世界」ですが、既存のテクノロジーを用いて
新たなテクノロジー(知も含めて)を生み出すのもまた「社会的世界」といえるでしょう。
学校においてもトリビアルな知を探求する実践共同体が生まれてくることがあれば、
それは妨げるものではないと思います。
しかし、トリビアルな知であれプラグマティックな知であれ、
学校においてそうした知を扱う実践共同体はどうしたら生まれてくるか、
またその実践をいかに妨げずに済むかということは、難しい問題ですね。


210.197.167.215 , HDOfa-01p8-215.ppp11.odn.ad.jp ,


49 名前:有元典文@管理者 ★:2007/07/07 21:28 ID:???

>>47 高橋さん、ごくろうさま

> すっきりしない、悶々とした感じが続いてます…。

それはいけませんネ。ぜひ解消しましょう。
すっきりしないところを、お聞かせ下さい。

> これを書きながら、ふと、第二次世界大戦中の日本の「学校」は、
ある意味日本人としての「十全参加」への道をはっきりと示した
「理想的?」な共同体だったのでは

過去を振り返るとそう見えるかも知れませんが、
戦争してても学校は学校だったのではないか。
戦争中かどうかよりも「学校」であることのほうが
ひとの心に作用するような気がします。

50 名前:有元典文@管理者 ★:2007/07/07 21:42 ID:???

>>48 大島さん、

> 学校においてそうした知を扱う実践共同体はどうしたら生まれてくるか、
> またその実践をいかに妨げずに済むかということは、難しい問題ですね。

制度としての学校はいろいろブチコワシなところがあると思います。
良かれと思って、考え方や手段や結果を標準化する装置なので。
人がいっぱいいるところ、という意味では、いろんな取り組みが
できそうな気がします。同好の士があつまったクラブ活動では
ずいぶん青春の血をたぎらせた思い出があります。みなさんもそうでしょう。
沸き立つさまざまの実践を妨げないためには、学校の制度があまり
アクティベイトされないようにする歯止めが必要かも。
制度じゃなくて人のチームに決定権を持たせたらいいですよね。
さて、こうした実践共同体の苗床としての学校、のダークサイドは
倫理、安全、政治の側面でしょう。化学部で爆弾作ったり、社問研で
テロったり、特定カルトと結んだり…。地域と結ぶとホンモノのメンバーと
結んでしまうかもしれない。制度としての学校ならそういう動きを
ぶちこわすと思うのですけど。面白いほどあぶなく、リアルなほど面白い。

51 名前:名無しさん@有元掲示板:2007/07/10 10:27 ID:1Cj0TWmo

第9回講義録 7月3日
「状況に埋め込まれた学習」 p.127-139
主に、「V プロト認知主義としての構造主義」における
重要点が講義で取り上げられました。その中で、捉え方が
間違っているかもしれませんが、まとめました。

(p.136 L4)「暗黙の思考の活動の痕跡」について、目の
前でみている事象が文脈から切り離し、構造だけ見ること
ができるかどうか、意見が対立している。

○暗黙の思考をプログラムに捉えようとしている、計算主
義的な意見。
Ex.)Skinner,B.F.のスキナー箱で見られる行動は、作った
行動である。いかにその行動が可視的なのか。ここでは、誰
が見ているのか、言わない。
↑ レイヴ:「頭の中だけで見ているのは変」と批判。

○レヴィ構造のように、誰に見えるか、を意識した捉え方。
レヴィは野生での認知結果より“まなざし工夫”を指摘した
ように、どういう条件からどういう時にそう見えるのか、ポ
スト-モダンな考え方をした。
 Ex.)記憶実験…無意味つづりを使用し、誰から見た記憶な
のか、可視的になるよう工夫している。
計算主義的な立場からみると、「どうして記憶が可能なのか
?」という疑問になる。
⇒これを教育現場に置き換えると、「どうして個人の学習が
見えるのか?」「どうして評価が見えるのか?」という考え
になる。

レヴィ流の構造主義の、認知心理学との対応づけ
実験室=遠くからみることで、個々の事例をみないようにし
ている。
   →“野生の実験室”=野生に出て行っているが、やっ
ていることは実験室的。
      ↓
    野生の思考の純度が保たれる。

すみません、2つに分けます。あと少し続きます。お願いします。
133.34.235.143 , pc-j013.ipcf.ynu.ac.jp ,


52 名前:学校教育臨床分野M1海原美香:2007/07/10 10:32 ID:???

上の名無しさんも、私です。学校教育臨床分野M1の海原です。
書き込みが遅くなってしまい、すみません。ご指導、ありがとう
ございました。
書きながら考えたのが、レヴィ構造での暗黙の思考の活動の痕跡
の捉え方です。学校で、例えば学力や知能など、そのきちんとし
た具体的な定義は知らないかもしれないのに何となく使用してい
る言語があると思います。目に見えないけれど、それは確かに生
活に影響しており、我々が試験など、レヴィの捉え方のようにあ
る条件からの一側面を見て、それがその子の学力の全てだと思っ
ているものではないでしょうか。そして平均値を算出するなど、
個々を1つのクラスとして遠くから見る面もあると思い、学校で
はレヴィ構造に近いものがあるかもしれないと考えました。
しか、欲張りかもしれませんが私は対立しているどちらも臨機応
変に使っていくのがよいかと思います。2つの対立など、同じ対
象をみているのに別々の異なった見方があるのは面白いと感じま
した。

133.34.235.143 , pc-j013.ipcf.ynu.ac.jp ,


53 名前:「弱い方略」小清水宣雄:2007/07/10 16:39 ID:???

第9回講義録 7月3日
『状況に埋め込まれた学習』p139−p147
W 失われた実践−行為者の抹殺と再導入
遅くなって申し訳ありません。
講義では「観察者の視点の問題」がクローズアップされた
と記憶しています。「何を、どう観察するか」という、観
察のテクノロジーについて有元先生からお話がありました。
「次回星座の論文あげる!」とのことでした・・・。

□本文について(「弱い方略」でまとめたレジュメを参考
にしてください)
・レヴィ=ストロースの構造主義的な手続きに対する批判
p141.l6
 見たいものを見てまとめるだけ。/見ようとしたら見え
るだけ。/観察者の目論見とセットになって、見えないも
の、見なくていいものを可視的にしているだけ。
【観察者の視点の問題】
・しかし・・・「構造化された側面が見出されるのは否定しが
たい事実」p142.l1であって、問題は「対象の構造的把握が
可能となるとすれば、それはどういう条件下でなのか、と
いう点を明確にすること」(p142.l2)で、「構造の問題は、
無意識におけるある抽象化された原理の問題ではなく、社会
的実践の様々な表出の問題」(p142.l7)ということになる。

59.143.59.133 , KHP059143059133.ppp-bb.dion.ne.jp ,


54 名前:「弱い方略」小清水宣雄:2007/07/10 16:40 ID:???

長すぎました。続きです・・・
・そこで・・・
社会的行為者を議論の中心に再導入すると
「心的構造という概念の中の社会的活動の、相互に異なる諸
相が見えてくる」(P142.l9)ので、「心的構造のかわりに社
会的行為者というものを分析の中心におき、彼らの実践的な
活動というものを軸に分析してみると、心的構造という発想
を支える暗黙の前提を、言わば再文脈化する事が可能になる」
(p143.l9)
 ↓
社会的行為の全体的スペクトラムの「何処に焦点を当てるか
によって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、
それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化
可能になる」(p144.l14 )
つまり・・・
◎「構造的パターンを社会的実践の文脈の中に置き換えてやる
事が大切」(p146.l9)
 「構造として見る」のと同時に「個別のケースを見る」こと
が大切ということ。
 EX)ADHDの子
    構造として見る(=診断名を先行させる)と、関わる
担任としては心の構えができてある意味対応が楽になる。しか
し、ある種のレッテル張りになり、個別のケースを見失う可能
性がある。


□「星座の論文」について
「星座コンストレーション」?
 星座とは、人間的、文化的なフィルターを通し図形を見て
いる(本物ではない)ものであり、人間は星座づくりを組織
的に行っている。(オリオン座 = 酒桝座  同じもの)
59.143.59.133 , KHP059143059133.ppp-bb.dion.ne.jp ,


55 名前:有元典文@管理者 ★:2007/07/11 07:21 ID:???

>>51-52 海原さん、>>53-54 小清水さん、どうもごくろうさま。
解説は本文より簡単であるべきですよね(^_^;
レイブ&ウェンガーが取り上げていない人類学の歴史花盛りで
より混乱を深めたかも…。人の行為を司るものがなんなのか、
社会の構造なのか、心理なのか、この興味を人間はずっと
考えてきたのですね。そのこともおもしろいことです。

56 名前:会津 律治:2007/07/18 01:08 ID:8Dkphcm2

Y 正統的周辺参加と実践共同体
◎レイヴとウェンガーのこの本の主題は、社会的実践こそが目的とされる議論の中心であり、
構造も認知もそれから不自然に分離させて研究することは出来ないとする研究である。

◎レイヴとウェンガーは徒弟制をヒントに「実践共同体」=社会的実践を、
そこへの参加の過程という形で定式化した。

◎実践共同体は−前もって「構造化」されている。
1. 実践活動を行う他の行為者間の構造(徒弟仲間や古参者、親方)
2. 実践活動に直接関係する、道具を含んだ空間の物理的な配置(道具のオープン性、
道具や親方の作業へのアクセス性)二つの構造は密接な関係があり、
齟齬→実践共同体の効率が不安定になる。

◎徒弟制は継続的学習の場であり、穏やかに変化する環境の中で社会構造の再生産を行い、
緩やかな向心的運動は、新参者から親方に向かう螺旋であるといえる。

◎行為者 ― 道具 ― 実践 (分離不可能) 全体的な配置を次第に構成
 → 道具は「透明」になっていく。
◎道具の透明性の持つ二重性格
(不可視性と可視性、盲人の使用する杖と杖の先の路面状況把握の関係)

◎社会的実践と言語の問題行為者の実践について語る構造と社会的活動形式は別に捉える
身体化された暗黙知―熟練者も上手く言えない、却って極めて図式的な説明になる、
実践活動のプロセスの中に埋め込まれた(沈黙を含んだ)発話の諸機能を分析する。

◎徒弟制的な知のあり方と学校教育のそれの違い(例えば学習の動機についての問い)
暗示的に示している
☆有元先生:学校もまた、実践共同体の場である。

◎終わりに
「状況的学習」論 = 従来の認知研究、あるいは熟練の心理学と社会的再生産を結ぶ
新たなコンフィギレーションの一つの結束点を象徴している。

※引越しのため、本を荷造りしてしまい、書き込みが遅くなった事をお詫び申し上げます。

222.13.35.37 , P222013035037.ppp.prin.ne.jp ,


57 名前:名無しさん@有元掲示板:2007/07/18 02:24 ID:Vq80P+VA

第10回 講義録 7月10日
『状況に埋め込まれた学習』p147−p155

X 構造と学習する身体
現代の社会科学の課題は、構造性と即興性の両面の解明であるという問題提起
から、社会学者のブルデューを紹介し、彼の考えるハビトゥスの概念を中心に
問題に迫ろうとするのがこの章である。

議論の中心点は、「構造化された構造であると同時に構造化する構造」であった。
授業中に様々な意見が出て参考になりました。その中で分かりやすかったのが、
「人がやっている事を自分がやる」→「やっている事をみんながする」
そのように考えるならば、正統的周辺参加は、ハビトゥスに似ている。
上記のような考え方をすると確かに捉えやすくなったような気がします。

○構造性と即興性の間の関係をどうみるかとう問い
            ↓
ドレイファスのいうエキスパートレベルにその熟練度が高まっている必要がある
(そこでは環境との相互作用は既にそれを一々意識する必要がないくらい円滑に
行われる)
           ↓   ↓
○熟練の達成を可能にする条件とは一体何なのか
          ↓   ↓   ↓
ドレイファスもブルデューも結局は解決できない。

書き込みが遅くなりまして、申し訳ありませんでした。
ハビトゥスという言葉が曖昧で分かりづらかったので、「最新 教育キーワード」
2007年に載っていた説明を載せておきます。
ハビトゥスとは、「日常生活で行為や態度を習慣化し、その結果、日常生活そのもの
を自明視させる資質の総体。それは、意識上に上ることもない。なぜなら、それは
身体化されているからである」
今回の発表で、様々な学者の名前や考え方が紹介されており、難解に感じまし
たが、発表をおえて少し理解できたように感じます。ありがとうございました。
218.110.16.96 , p6e1060.kngwnt01.ap.so-net.ne.jp ,


58 名前:学校教育学専攻 M1 井:2007/07/18 02:26 ID:Vq80P+VA

すいません。名前書き忘れました。井でした。。
218.110.16.96 , p6e1060.kngwnt01.ap.so-net.ne.jp ,


59 名前:書けませんよ。。。:停止

真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ

66KB
新着レスの表示

掲示板へ戻る 全部 前100 次100 最新50