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2009学習心理学講義(-特論)
- 37 名前:& ◆xX14F2N4nU :2009/06/30 00:59 ID:Fh5ck9Gk
- 遅くなってすみません。
その2
第4章
「個人の認知なくして,分散認知はあるのか」
―ダイナミックな相互作用の観点から―
前章の途中からこちらに移行する形で議論となりました。
具体的には,以下の2点について議論となりました。
ただし,ここでは,
パーソン・ソロ≒個人の認知
パーソン・プラス≒分散認知
と考えます。
@パーソンソロは必要ないのではないか。
・個人の認知と分散認知は相互作用的に存在する。
それらは,相互に影響しあい,お互いに定義しあい,
その過程で個人内に認知的痕跡を残していく。
Cf)らせん状の発達の概念(本書p159)
・高次の知識などは,個人の認知のみで発達していく。
Aもしパーソン・ソロが必要ならば,教育において
どのよう形で必要とされるのか。
・個人の認知と分散認知の相互作用のなかで互いに発達
していく。
・分散認知は教育のすべてではない。分散認知をすべてとし
てしまうと,人間の技能の発達が停止する。
(例)計算機をずっと使っていると,暗算や数学的思考が
できなくなり,日常生活に支障をきたす。
59.171.135.82 , 59-171-135-82.rev.home.ne.jp ,
- 38 名前:かわもと:2009/06/30 01:00 ID:Fh5ck9Gk
- 続きです。
感想
・従来の教育現場(学校)では,個人の認知が重視
されていた。前述だが,個人の認知も必要であり,
それらが認知的痕跡という形で蓄積されるという
事実は否めない。では分散認知はどうであろうか。
分散認知的な視点は子どもの能力の発達を周囲の
媒介物から捉えるため,教師は教材や学習環境を
デザインすることの重要性に気づく。つまり,教
える立場である教師側に「教材や学習デザイン
(分散認知)が学習の成果(個人の認知)を定義
する」という重要な視点を与える。こう考えると,
子ども以上に,教える側である教師にとっての新
たな,そして重要な視点を与えるものとして分散
認知を理解する必要があるように思う。
・一つ,前から疑問に思っていたのですが,分散認
知に関することなので述べたいと思います。
教育現場では,子どもの評価項目として「興味・
関心・意欲・態度」などが挙げられてる。しかし,
これらが足りないのは子どもの側に原因があるの
ではなく,引き出せなかった教師側に原因がある
のではないか。そもそも子どもは興味や関心があ
るからを学習を受けているのではなく,ある程度
の動機づけがあるにしろ教師側から唐突に学習を
行わせているのだから,子どもに興味や関心がな
いのは仕方がない。評価されるべきは、興味や関
心を引き出せなかった教師であるように思えてな
らない。
長くなって申し訳ありません。
59.171.135.82 , 59-171-135-82.rev.home.ne.jp ,
- 39 名前:有元典文@かんりしゃ ★:2009/07/01 09:56 ID:???
- >>33 近田さん
遅くなりました、6月9日講義録ごくろうさま。
ラチェット効果という言葉にいたく感銘を受けた。それも
>ラチェット化するために人はどれだけの労力を費やしたのか?
という点において。ラチェットをはずしたら、ギアはずるずると
逆回転をはじめるだろう。ラチェットの最たるものは市井の
人々の日々の実践だと思います(例えば、日本人のおじぎ。例えば正座)。
そして一部を学校が受け持ってると思います。
>本当にヒト以外に文化は存在しないのか?
>動物の高次な行動には生息する地域によって違いがある。
>それは育った環境、いわば文化的背景によって
>決定づけられたものではないのか?
>それはもはや文化ではないのか?
↑この感想の意味がよく分かりません。
すみませんが、再レポでもう一度分かりやすく書いてくださいませんか。
>>34 森井さん、講義録おつかれさま。
>特にMacfarlaneの赤ちゃんの例
>が興味深かったです。
観念が現実に影響を与える、という点が狂おしく興味深かったです。
これぞ人間の人間たるゆえん、と深く得心しました。
>>35、柳町さん、ありがとう。
> 教育では、“単独(ソロ)の”知性が重視され、資源の利用を許さない。
↑こういう学校の振り返り方をすることに意味があると考えます。
水のように空気のように現代人に当たり前の学校のデザインを
こうやって見返してみることは重要だと思います。
あ、後半で川本氏がいってますね。
>感想:教育が時代遅れになってはいけない,教育と実社会を結びつけることは
>大切だ,と感じながらも,
>時代おくれでアナログっぽいところが,学校のいいとろでもあるのにな,
>と思ってしまいました。学校っぽさ。
魅力的な感想ですね。私なりに共感します。
小学校にいっていると、先生が愚直なまでに熱心に、秩序や思いやりや
友情や元気を子供に語り続けるのを目にします。そういうおせっかいこそが
日本の学校の本質かも。これはすごく大事なことでしょう。
能力還元主義の気持ち悪さとは別に、こういうオトナのおせっかいの
側面はいい。
>>36-37 朴さん、ごくろうさま
>認知の行為者としての人間とは何か
この問が私のいちばんの問です。
以下のまとめ、ポエティックですね。気に入った。
厳密な意味での人とは,
だれも有する核としてではなく,
相互作用と組み合わせとして,
共通部分だけではなく,
係り合いの総和として,
純粋で永続的な中核ではなく,
参加しているもの全ての合計ないしは群れとして,
>パーソン・ソロとパーソン・プラスの相互学習と,
>それを学習者自身が意識することが必要だと思いました。
学習者自身が自分の学びと能力の成り立ちを意識する、という
のは素晴らしいと思います。自分のやってることに気づくのは
よい実践者ですよね。
>それに,生きる上で人プラス人(human plus or people plus)で
>「共助」できればいいなと思いました。
こういうヒューマニティの強調は大好きです。
>>38 かわもとさま、おつです。
>つまり,教える立場である教師側に「教材や学習デザイン
>分散認知)が学習の成果(個人の認知)を定義
>する」という重要な視点を与える。
すばらしい感想ですね。改めて感心しました。
己の行いのよって立つところを知る、というのは
向上するプロフェッショナルに必須のことでしょうね。
関心意欲態度についてもおっしゃるとおり。
昨日は良い議論が出来ました。
みなさんありがとう。毎回ハゲしく楽しいです。
- 40 名前:大江:2009/07/12 23:14 ID:v5vai6EI
- 分散認知 第5章 生きた知識:思考のための文化的資源の社会的分散を担当しました。
精神活動は頭の中の現象というよりも、人々やその活動や場面に、広がっている(stretched over)現象である。
つまり、精神活動がどのようにして "外に向かって" 姿を現しているかということである。
5章には2つの事例研究が示されています。家族の中に生きた知識と教室の中に生きた知識です。
家族の研究では、社会的ネットワークが家族と彼らの社会環境を相互に結びつけ、資源を共有したり交換することをうながすものである。
教室の研究では、人が知識を得る方法や理由が、社会的な取り決めの力によって強力に左右されることが示されている。
124.85.179.27 , p7027-ipbf307hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,
- 41 名前:大江:2009/07/12 23:55 ID:v5vai6EI
- 続きです。
教室の事例の中に、教師の目標は生徒の環境の中の資源を活用する方法や思考のために利用できる
文化的知識を意識して使える方法を教えることである。とありました。
講義中に出てきたファシリテーションについて、以前読んだ本に次のように書かれていました。
少し長いですが、今回の事例の教師の役割と関係あるのでしょうか?
ファシリテーターは教えない。「先生」ではないし、上に立って命令する「指導者」でもない。
その代りにファシリテーターは、支援し、促進する。場を作り、つなぎ、取り持つ。
そそのかし、引き出し、待つ。共に在り、問いかけ、まとめる。
そこに関わる一人ひとりが自分自身で考え、学び、気づき、創造すること、促したり容易にする。
個人やグループ全体が、お互いに安心してのびのびと探究できる場を作り、自ら活性化するのを助ける。
ファシリテーターは、「支援者」であり、新しい誕生を助ける「助産師」の役割を担うのだ。
私は、学校(教室)は、共有された活動をしながら、さまざまな知識を得て、人間関係を築くところであるので、
教師の「指導者」としての役割と同じくらい「ファシリテーター」としての役割は必要だと感じました。
以上 大江
124.85.179.27 , p7027-ipbf307hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ,
- 42 名前:佐藤:2009/07/13 00:18 ID:3gIrE77g
- <概要>
幼稚園の教室(具体的には砂場コーナーと芸術コーナー)をフィールドに
して、それぞれの場所で行われる幼児の遊びの観察から、幼児の認知の獲得
に個人的な力、局所的な力、文化的な力の3つの力が作用していることを
論証しようとしている。
砂遊びでもお絵描きにおいても、観察対象になった2人の幼児に
局所的な力、文化的な力を媒介として分散認知が成立するとしている。
<討論>
3つの力が幼児の認知に作用しているという説明は分かりやすいが、
それぞれの力の内容説明や、力相互の影響の仕方などについては、
あまり深い分析はない。
ケニーとマークの個人的な力についての定義が、両親の証言だけによる
というのは、客観性に乏しいのではないか。
限定された場所(局所)と遊びの中での幼児の認知という条件だが、
一般の大人の知能の拡張の説明には、どこまでが使えそうなのか。
<感想>
4月からの授業全体の感想ですが、教育や学習をもっぱらpedagogyの
面からしか見ていなかった私に、全く違う側面からそれらを考える機会
となりました。有元先生のコメントの内容は、私には勉強不足で分から
ないものが多かったのですが、「主体や個人の才能・能力なんてあるのか」
という命題が心理学では問題になるということが、私には非常に刺激的な
ものでした。まるでマルクス主義の基底還元論のようで、学生時代の議論
を思い出します。
脳科学の研究で知能や感情の成立自体も脳の仕組みからすべて説明でき、
「脳力」を鍛えれば誰でも素晴らしい能力が身に付くような見解が振りま
かれています。先日のNHKの番組で、プロの棋士は子どもの時から毎日
3時間以上は集中して将棋を指したり棋譜を研究しているそうです。
その結果、アマチュアよりずっと早く指し手を考えたり、将棋を指すとき
に使う脳の部位も常人とは違う部位だということでした。そうした脳力と
係わる外部の存在(同心円的な外部の力)はどんなものなのか、
学習心理学を学んでみると関心があります。
教科教育では、分散認知や状況的学習の理論を理解して実践に取り入れて
いくことは、非常に有効だと思いました。
118.87.4.68 , 118-87-4-68.odwr.j-cnet.jp ,
- 43 名前:有元@かんりしゃ ★:2009/07/16 12:38 ID:???
- >>40-41 大江さん
> ファシリテーターは、「支援者」であり、新しい誕生を助ける「助産師」の役割
内容によるのじゃないかと思います。
教え込んだ方がよいことは自信を持って教え込んだらよいし、
自ら気付かせた方が良いことには助産婦になったらよいでしょう。
- 44 名前:有元@かんりしゃ ★:2009/07/16 12:39 ID:???
- >>42 佐藤さん
> 有元先生のコメントの内容は、私には勉強不足で分から
ないものが多かったのですが、
それは是非とも最後に確認してください。もったいない。
と、どんな先生でも言うでしょう。
>まるでマルクス主義の基底還元論のようで、学生時代の議論
を思い出します。
状況論関係の本をお読みになればお気づきの通り、元はマルクスです。
"デザインド・リアリティ"参照。
>そうした脳力と係わる外部の存在(同心円的な外部の力)はどんなものなのか、
ややこしいことをいいますが、能力も私は人間の外だと考えると
面白いと思っています。例えば勉強が苦手な脳に生まれたことは
その人と関係のないことで、その人にとって脳はやっかいな外部と
考えてもいいのではないでしょうか。ちょっと面白くないですか。
- 45 名前:岩崎知美:2009/07/22 09:22 ID:C3aGfM6o
- 状況論に興味があり、この授業を受講させていただきました。最
初のころは状況論との関係もわからず、でも知らない知識に出会う
ことが楽しく、参加していました。
しかし、後半『分散認知』の三章あたりから、自分の考えている
ことと、この授業で討議されていることが自分の中で繋がり、それ
までの授業の内容もすっきりと自分の中に入ってくるように感まし
た。
私は芸術系教育の中で「地域や社会の教育力をいかした美術教育」
という題目で研究をしています。そこでは美術教育は学校の教室の
中だけで完結するものではなく、社会や身の周りにあるあらゆる教
育資源を活用し学習すること、またそのような資源を活用するため
の個人の資質や能力を、授業の中で育てることが大切なのではない
か・・・というようなこと考えていました。
このような考え方が分散認知とされるかどうかはわかりませんが、
議論の中にあった「教える側の視点の問題」という考え方には共感
しましたし、受講生の皆様の様々な視点からの意見を、毎回新鮮な
思いで聴かせて頂きました。ありがとうございました。
長くなりましたが、いつも鋭いコメントを投げかけてくださった有元
先生と親切にいろいろなことを教えてくださった受講生の皆様に感謝
の気持ちまで。
219.165.55.3 , p23003-adsau18honb3-acca.tokyo.ocn.ne.jp ,
- 46 名前:近田:2009/07/23 03:53 ID:q+ip0Zkw
- 再レポです。
あの感想で何が言いたかったのかというと、
文化の定義が自分でもあいまいになってしまっていたのでわかりにくい
感想になってしまったんですけども。
要するに「人であれ何であれ、生物が生きているということはそれだけで
文化を形成しているのではないか」ということです。
シロアリ釣りやナッツクラッキングなど、道具を使用することが文化的である
とか、そういうことだけが言いたいわけではありません。
身も蓋もないような言い方かもしれませんが、この本から「文化を作るのも維持するのも、
それが文化であるのかを判断するのも全てヒト」というような印象を受け、
それに違和感を感じました。違和感を感じた理由を文章化することは
まだできませんが。しばらくゆっくり考えてみます。
133.34.73.121 , psy27.edhs.ynu.ac.jp ,
- 47 名前:有元@かんりしゃ ★:2009/07/27 06:14 ID:???
- >>45 岩崎知美さま
「地域や社会の教育力をいかした美術教育」 、非常に興味深いです。
こんど話を聞かせてください。もっと皆さんの研究の話もうかがうのでした。
絵の具のない世界での美術能力、美術教育のない世界での美術能力、
美術館の無い世界での美術能力、仲間のない世界でのそれを想定して
みたらどうなるでしょう。それは強く動機をもったものだけの為す
極めて独創的、または独りよがりなものになるはずです
(もちろんその良さもあり)。それは今・ここでの私たちの美術能力
とは違うなにかです。つまり個々の人間の中にだけ能力はなく、
ひろく文化に分散していると言える。そもそも人間は地域や社会とともに
あるというのが、分散認知的な理解でしょう。ただ「教育」するだけでなく、
つまり外から与えるだけでなく、外から内側の能力を補完しつつある。
それが人間のおもしろさ、すばらしさだと思います。
- 48 名前:有元@かんりしゃ ★:2009/07/27 06:21 ID:???
- >>46 近田さま
再レポおつかれです。あえてしつこく指摘しますが、この一文の
中にもいいたいことが複数有り未整理ですね。作文が課題だと
思いますので、そこを今後の重点目標としましょう。
>「人であれ何であれ、生物が生きているということはそれだけで
文化を形成しているのではないか」
おっしゃるとおり文化の定義如何によること。
私は講義でもいったとおり、生きてるだけの状態を文化的とは
思いません。トートロジーになりますが、文化と一体になっている
状態を文化的と考えたい。じゃ、文化とはいかに定義されるか。
この講義に即して言えば、文化とは分散認知の基盤だと思います。
文化の定義の中に文化的なことがはいってこれまたトートロジーですけど。
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